かんざし日和 ――恋をするのに遅すぎることなんかない
第八話 「鮭の南蛮漬け」
冷蔵庫の中で、鮭の切り身が静かに下味を含んでいた。
酢と醤油、みりんに軽く漬け込み、薄く片栗粉をまぶす。志乃は、そのひとつひとつの工程に丁寧に手を動かしていた。
昨日、市場の甘味処でのことが頭に浮かぶ。
――「今度、鮭の南蛮漬け、作ってあげますよ」
あのとき、自分でも自然すぎるほどの声だった。けれど、英敏の「楽しみです」という言葉に、志乃の胸は確かに、やわらかくほどけていった。
フライパンに油を熱し、じゅっと音を立てて鮭を揚げ焼きにする。甘酢にくぐらせたら、輪切りの玉ねぎとパプリカ、薄切りのにんじんを添えて、ひと晩なじませた。
そして今、テーブルの上には、その南蛮漬けを中心に、小鉢がいくつか並んでいる。菜の花のおひたし、ひじきの煮物、そして豆腐とわかめの味噌汁。土鍋で炊いたごはんの湯気が、部屋にあたたかさを運んでくる。
インターホンの音が鳴る。志乃はエプロンの裾を軽く整えながら、玄関へ向かった。
「いらっしゃい」
「いえ、大丈夫です。……いい香りがしてますね」
英敏は、玄関先で小さな紙袋を掲げた。「これ、近くで買った和菓子です。デザートにでも」
「気が利きますね。ありがとう」
ふたりはテーブルにつき、志乃の「いただきます」の声で箸を取った。
英敏は、まず南蛮漬けに箸を伸ばした。やわらかな鮭の身と、甘酸っぱい野菜をゆっくりと噛みしめる。
「……美味しいです」
英敏は、しばらく黙ったまま、もう一口食べてから続けた。
「懐かしい味……というわけでもないのに、なんだか安心する味です」
志乃は、ふっと息を漏らすように笑った。
「それ、母の得意料理だったんです。ちょっとアレンジはしてますけど」
「そうなんですね……きっと、その味が志乃さんの中に残っていて、こうして受け継がれてるんですね」
そんなふうに言われるとは思っていなかった。志乃は少し照れながら味噌汁を口にした。
ふたりのあいだに流れる空気は、穏やかであたたかく、何も言わなくても満たされていく。
――誰かのために作る食卓。
――誰かと一緒に囲む食卓。
それが、こんなにも自然で、幸せだと思える日がまた来るなんて。
志乃は、窓の外に目をやった。春の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいる。
酢と醤油、みりんに軽く漬け込み、薄く片栗粉をまぶす。志乃は、そのひとつひとつの工程に丁寧に手を動かしていた。
昨日、市場の甘味処でのことが頭に浮かぶ。
――「今度、鮭の南蛮漬け、作ってあげますよ」
あのとき、自分でも自然すぎるほどの声だった。けれど、英敏の「楽しみです」という言葉に、志乃の胸は確かに、やわらかくほどけていった。
フライパンに油を熱し、じゅっと音を立てて鮭を揚げ焼きにする。甘酢にくぐらせたら、輪切りの玉ねぎとパプリカ、薄切りのにんじんを添えて、ひと晩なじませた。
そして今、テーブルの上には、その南蛮漬けを中心に、小鉢がいくつか並んでいる。菜の花のおひたし、ひじきの煮物、そして豆腐とわかめの味噌汁。土鍋で炊いたごはんの湯気が、部屋にあたたかさを運んでくる。
インターホンの音が鳴る。志乃はエプロンの裾を軽く整えながら、玄関へ向かった。
「いらっしゃい」
「いえ、大丈夫です。……いい香りがしてますね」
英敏は、玄関先で小さな紙袋を掲げた。「これ、近くで買った和菓子です。デザートにでも」
「気が利きますね。ありがとう」
ふたりはテーブルにつき、志乃の「いただきます」の声で箸を取った。
英敏は、まず南蛮漬けに箸を伸ばした。やわらかな鮭の身と、甘酸っぱい野菜をゆっくりと噛みしめる。
「……美味しいです」
英敏は、しばらく黙ったまま、もう一口食べてから続けた。
「懐かしい味……というわけでもないのに、なんだか安心する味です」
志乃は、ふっと息を漏らすように笑った。
「それ、母の得意料理だったんです。ちょっとアレンジはしてますけど」
「そうなんですね……きっと、その味が志乃さんの中に残っていて、こうして受け継がれてるんですね」
そんなふうに言われるとは思っていなかった。志乃は少し照れながら味噌汁を口にした。
ふたりのあいだに流れる空気は、穏やかであたたかく、何も言わなくても満たされていく。
――誰かのために作る食卓。
――誰かと一緒に囲む食卓。
それが、こんなにも自然で、幸せだと思える日がまた来るなんて。
志乃は、窓の外に目をやった。春の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいる。