かんざし日和 ――恋をするのに遅すぎることなんかない
第九話 「元夫」
午後のレジ業務も、そろそろ終わりが見えてきた時間だった。
志乃は、手慣れた手つきでバーコードを読み取りながら、客のかごをサイドテーブルに移す。いつもと変わらぬ、落ち着いた日常の風景。けれど、その流れは唐突に崩れた。
「川上さん」
その声に、志乃は思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは、もう見慣れなくなった人の顔――西田巌。かつての夫。
スーツ姿、肩に小さな埃、髪にはうっすらと白いものが混じっている。変わらないようでいて、どこか寂しげな影をまとっていた。
「……巌さん」
「お前、最近、男と付き合ってるんだってな」
志乃は一瞬、まばたきをした。それから、ごく淡く笑った。
「知り合いから聞いたんだ。アメ横で男と一緒に買い物してたってな。楽しそうにしてたって。……俺には何も言わずに、ずいぶんだな」
「……冗談でしょう? あなたに言わなきゃいけない義理、あると思ってるの?」
「そうだよ。けどな……子どもがいるんだぞ。母親が他人とベタベタしてたら、見た人がどう思うか……」
「ふぅん……じゃあ聞くけど。あなたが“職場の若い子”と何年も不倫してたとき、娘の目がどう映ってたか、考えたことあった?」
巌の口が、わずかに開いたまま固まる。
「私は、黙ってたのよ。娘が独り立ちするまではって。……でも、あなたは私に“黙って付き合ってた”なんて言うのね。よくもまあ、そんなことが言えるわね」
そのときだった。レジ列の後ろから、ゆっくりと歩いてくる姿があった。
「すみません。話の途中に失礼します」
穏やかな声。瑞原英敏だった。手にはスーパーの袋。表情は冷静で、声には柔らかな確信があった。
「あなたが、志乃さんの元ご主人ですね」
巌が警戒したように目を細める。
「……あんた、誰だ?」
「瑞原英敏と申します。志乃さんとは、友人です」
短く、しかしはっきりとした言葉だった。
「あなたが何を思われても構いませんが、志乃さんが誰と過ごすかを責める権利は、今のあなたにはないはずです」
「は……?」
巌の顔に動揺が走る。けれど、英敏は声を荒げず、静かに続けた。
「彼女は、あなたとの生活を終えて、自分の人生を歩いています。あなたも、そうすべきじゃないでしょうか」
巌は言葉を失い、唇を閉じたまま視線を落とす。苛立ちとも戸惑いともつかぬ沈黙。
その間に、志乃はゆっくりと言葉を紡いだ。
「巌さん。私は、もう我慢する生き方をやめたの。自分で選んで、自分で決めて、今を生きてる」
巌は、何も返さなかった。最後に一度だけ志乃を見て、目を伏せるようにその場を後にした。
スーパーの自動ドアが静かに閉まり、冷たい風が吹き込む。
英敏は、小さく息を吐いた。
「……出すぎた真似でしたか?」
「ううん……ありがとう」
志乃は、小さな笑みを浮かべた。
言葉よりも、その静かな立ち姿が、何より心強かった。
――この人といる未来なら、怖くない。
そんな確信が、胸の奥に芽生えていた。
志乃は、手慣れた手つきでバーコードを読み取りながら、客のかごをサイドテーブルに移す。いつもと変わらぬ、落ち着いた日常の風景。けれど、その流れは唐突に崩れた。
「川上さん」
その声に、志乃は思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは、もう見慣れなくなった人の顔――西田巌。かつての夫。
スーツ姿、肩に小さな埃、髪にはうっすらと白いものが混じっている。変わらないようでいて、どこか寂しげな影をまとっていた。
「……巌さん」
「お前、最近、男と付き合ってるんだってな」
志乃は一瞬、まばたきをした。それから、ごく淡く笑った。
「知り合いから聞いたんだ。アメ横で男と一緒に買い物してたってな。楽しそうにしてたって。……俺には何も言わずに、ずいぶんだな」
「……冗談でしょう? あなたに言わなきゃいけない義理、あると思ってるの?」
「そうだよ。けどな……子どもがいるんだぞ。母親が他人とベタベタしてたら、見た人がどう思うか……」
「ふぅん……じゃあ聞くけど。あなたが“職場の若い子”と何年も不倫してたとき、娘の目がどう映ってたか、考えたことあった?」
巌の口が、わずかに開いたまま固まる。
「私は、黙ってたのよ。娘が独り立ちするまではって。……でも、あなたは私に“黙って付き合ってた”なんて言うのね。よくもまあ、そんなことが言えるわね」
そのときだった。レジ列の後ろから、ゆっくりと歩いてくる姿があった。
「すみません。話の途中に失礼します」
穏やかな声。瑞原英敏だった。手にはスーパーの袋。表情は冷静で、声には柔らかな確信があった。
「あなたが、志乃さんの元ご主人ですね」
巌が警戒したように目を細める。
「……あんた、誰だ?」
「瑞原英敏と申します。志乃さんとは、友人です」
短く、しかしはっきりとした言葉だった。
「あなたが何を思われても構いませんが、志乃さんが誰と過ごすかを責める権利は、今のあなたにはないはずです」
「は……?」
巌の顔に動揺が走る。けれど、英敏は声を荒げず、静かに続けた。
「彼女は、あなたとの生活を終えて、自分の人生を歩いています。あなたも、そうすべきじゃないでしょうか」
巌は言葉を失い、唇を閉じたまま視線を落とす。苛立ちとも戸惑いともつかぬ沈黙。
その間に、志乃はゆっくりと言葉を紡いだ。
「巌さん。私は、もう我慢する生き方をやめたの。自分で選んで、自分で決めて、今を生きてる」
巌は、何も返さなかった。最後に一度だけ志乃を見て、目を伏せるようにその場を後にした。
スーパーの自動ドアが静かに閉まり、冷たい風が吹き込む。
英敏は、小さく息を吐いた。
「……出すぎた真似でしたか?」
「ううん……ありがとう」
志乃は、小さな笑みを浮かべた。
言葉よりも、その静かな立ち姿が、何より心強かった。
――この人といる未来なら、怖くない。
そんな確信が、胸の奥に芽生えていた。