Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

[旅] -2-2-

「うわっ」

 今まで静かだった空気から急に突風が生まれ、海岸の砂が巻き上がった。ふと視線を上げて見た西の空は真っ暗だ。

「嵐が来たのね……海の上の嵐って、こんな感じなのね」
「そっか、ルーラは海の中でしか知らないんだね。でもどうして先刻(さっき)海上へ上がった時、空を見て嵐が来るって分かったの?」

 気が付けば灰色の雲は真上へと到達寸前であった。冷たい湿った風が彼女の髪を掻き乱す。それは徐々に強くなり、びゅうびゅうと音を立て僕達に警告した。

「小さい頃から大ばば様が、良く海上の様子を教えてくれていたの。大ばば様は、いつもは白い『雲』という物が灰色や真っ黒になって、海の上に広がる『空』という物も暗くしてしまうって。『雨』という水が粒になって落ちてきて、それが海になるんだって。あとピカッて光る物が凄い音を立てるとか、波みたいにうねる……この『風』って物でしょ? それが色んな物を吹き飛ばしてしまうって」

 渦巻く風の中、僕が荷造りをしている間に、ルーラは髪を押さえながら語った。

「でも……」
「ルーラ?」

 過去を辿る瞳が、何かを手繰(たぐ)り寄せたようだ。ルーラはショックを隠せない様子で、

「全てはあたしをシレーネにするための教育だったんだわ……」

 まるで独り言のように呟いて、口を閉ざしてしまった。

 ──シレーネとしての教育。
 百五十年シレーネを立てなかった大ばば様が何故今になって──。

「きゃっ」

 僕の思考は、ルーラの小さな叫び声で打ち消された。

「雨が降ってきた。ルーラ、急ごう」
「これが雨……?」

 僕は果実を入るだけ詰め込んだ荷物を背負い、ルーラの左手を取って海中へと促した。
 不思議そうに天を見つめるルーラの表情は、この空と同じように曇っていたが、好奇心の瞳だけは一層輝きを増しているようで、

「ルーラ、そろそろ行こう。荷物が濡れちゃうよ」

 急かして左手を引いてみても、上を見上げたまま頑として動かなかった。

「あたし……行かない」
「え……?」

 今度は俯いてうな垂れてしまう。

「大ばば様が決めた人生なんて……」
「ルーラ……」
「だって……! 髪が金色に生まれただけで、あたしを選んだのよ! あたしにだけ結界の外の世界を楽しそうに教えて……あたし、暗くて古いあの東の館がずっと好きになれなかった。でも通ったの、外の世界を知りたかったから! 大ばば様は策略を練ったのよ、あたしをシレーネにしたかったから!!」

 ルーラは駄々っ子のように首を振って、自ら混乱の渦に身を投げていた。

「あたしは何をしたらいいの? 今のままでいいじゃない! シレーネがいなくたって、結界の中はずっと平和だった……あたしにどうしろっていうの? 何故あたしがシレーネになる必要があるの? 大ばば様は死んじゃった……あたしにシレーネを任せたのは間違いだったかもなんて言い遺して。だったらもういいじゃないっ、あたしは自由に生きたい!」

 そう一気にまくし立てた後、荒立った息を抑えるため、胸に手を当てて落ち着きを取り戻そうと試みたが、自分が何を言ってしまったのかも分からないかのように震えていた。

「ルーラ、行こう」
「え?」

 僕はおもむろに彼女を抱き上げ、陸に背を向け海の底を目指した。
 海面は僕の歩く足元から逃げるように僕を取り巻き、空間を造った。

「アメル……」
「ずっとこのままでも平気なくらい軽いね」

 驚きを隠せず見つめるルーラに、笑顔で返す。

「さ……此処から君は自由だよ」

 再び海底に到着して、僕は彼女を降ろした。

「東へ戻るのも、西へ行くのも、君の自由だよ。でも結界に戻るなら、僕は一緒に行けない。もし僕に使えるなら、大ばば様の石を貸してほしい。サファイア・ラグーンから戻ったら、必ず返すから」

 僕は出来るだけ優しく伝えたつもりだが、突然突き放されたかのような僕の言葉に、彼女の瞳は怯えていた。

「ごめん、ルーラ。きっと僕が巻き込んじゃったんだ。僕はサファイア・ラグーンへ行きたい。父さんを見つけたいんだ。母さんの病気を治すためにも。君にラグーンへ行く理由がなくなってしまったのなら、僕は無理強い出来ないよ。此処まで連れてきてくれてありがとう。本当に……ずっと一緒にいたいくらい楽しかったから……」

 こんな告白まがいの言葉も、彼女にはそのままの通りにしか聞こえないのだろう。でも……きっと、こういう運命だったんだ。

「ルーラ?」

 僕に説き伏せられて下を向いてしまったルーラは、ギュッと僕の右手を握り返して、無言で進み始めた──西へ。

「え? あ、あのっ」

 引っ張られる形になった僕は慌ててバランスを取ったが、ゴロゴロとした岩につまずいても、お構いなしに前進を続けるルーラに対して、今度は僕が戸惑いを隠せなかった。

「行くのっ!」
「え?」

 ルーラの一言に、僕の疑問符。

「行くのっ、行くの! 行くったら、行くのっ!!」
「ルーラ……」

 益々スピードを速めて先を目指すルーラの表情は、後を追いかける僕には見えなかったが、どうやら怒っているみたいだった。

 本当はまくし立てた言葉全てを否定してほしかったのかもしれない。
 当のルーラでさえ、今更元に戻れないことは判っているのだろう。

 肩を(いか)らせてズンズンと進むルーラの背中を見つめながら、何とかついていく僕は途中からおかしな気持ちになり、吹き出して笑いが止まらなくなってしまった。

「アメル……?」
「いや、あの……ごめん。僕達はいつも真逆かズレているなと思って」
「何が?」

 不審そうな表情をして泳ぎを止めたルーラは、僕の笑いとその意味不明な発言に、更に不機嫌な様子になった。

「喜怒哀楽が」

 ルーラの瞳が大きく丸く見開かれる。そして、

「意味分かんない!」

 とうとうそっぽを向いてしまった。

「ごめん、ごめん。僕達、どちらかが元気な時、どちらかが落ち込んでいたり、例えば、僕が泣きたい気持ちだった後に、ルーラが泣いていたり……いつも感情が反対だったり、ズレていたりするんだ。今もルーラは怒っているのに、僕は笑ってる」
「怒ってなんか……」

 そう言いながらも、ルーラはふくれっ面をした。

「でもね……」

 僕はルーラの目の前に顔を近付け、同じように頬を膨らませて、

「いつも笑顔のタイミングは一緒だよ」

 そう言って口を横に大きく広げ、おどけた笑い顔を作る。途端彼女もついに吹き出して笑みを零した。

「アメル、さっきみたいにして」

 ルーラは僕の両肩に手を置き、抱きかかえられることをお願いした。

「仰せの通りに。人魚姫」

 そうして暗く広がる西の海に向かって、僕は歩き始めた。

「こんな風にされるの、きっと母様にされてから一度もないわ。何だか気持ちいい」

 僕の首に巻きつけた両腕に顔をうずめて、ルーラは一つ大きく息を吐き、

「アメル、ごめんなさい」

 元のルーラに戻ったようだった。

「サファイア・ラグーンに辿り着けたら、大ばば様がシレーネを復活させたい理由も分かるかしら……」
「きっと、アーラという魔法使いが知っているよ。きっと……僕の父さんのことも……」
「……」
「ルーラ?」

 耳元で小さな寝息が聞こえた。神経の高揚することが沢山起きて疲れたのだろう。ルーラは僕の腕の中で眠っていた。

 目の前は歪んだ闇。水の流れがうねりを起こし、自分達の行く末も不安にさせる。
 それでも行こう。真実が其処にあるのなら。
 アーラがきっと全てを知っている──。


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