Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]
【第六章】[螺旋の鎖]

[父] -1-1-*

 ──アメル……アメル。

 暗い海。底の無い、深い深い海。

 ──アメル……アメル……

 僕を呼ぶ、海のように深く澄んだ声。

 ──……父さん?

 僕は見通しの利かない闇の中で声の主を探した。そう……この声は、僕の父さん──。

「何処にいるの? 父さん!」

 生温かい空間を切り裂くように動き回っても、何もいる気配はなく、何にも触われる物はなかった。

「父さん、何処!?」

 焦りと異様な温かさで、僕の額にはじっとりと汗が滲んだ。

 何にもいない。何にも触われない──。

「父さんっ!?」

 僕は半泣きで叫び続ける。

 ──アメル……。

「父さんっ?」

 父さんらしき声の主は、直接僕の心に話しかけてきた。

 ──お前は知っているだろう……私のいる場所を。言われた筈だ……西へ向かえと。場所は……  

「父さん! 場所はっ?」

 ──場所は……  

「父さんっ!」

 肝心なところでザワザワと吹きすさぶ気味の悪い風に邪魔されて、僕は何度となく訊き返した。

 ──場所は……  

「お願い、父さん、教えて……」

 この耳障りな風なのか、生温かい空気なのか……頬に熱を与えるのは、それとも僕の涙なのか。

 ──私は其処にいて、そしていない──。

「父さん……?」

 視界を遮る大きな闇は、やがて僕の目の前で渦を巻き、その声と共に僕を獲り込んで、果てへと滑っていった。

 ──父さん……。



 ◇ ◇ ◇



「アメル、アメル!」

 僕の頬をさする、なめらかな指。

「え……あ、ルーラ?」

 目の前には僕の頬を両掌で包み、ルーラが心配そうな表情で見下ろしていた。

「アメル、どうしたの? ずっとうなされていたのよ」

 安堵した彼女は左手を僕の右腕へ移し、右手で額の汗を(ぬぐ)ってくれた。

「うなされていた……? そうか、夢だったんだね。ごめん……起こしちゃったね」

 ルーラは「ううん」と首を振り、

「ずっと“とうさん! とうさん!”って叫んでいたわよ。今まで訊きそびれていたけど、とうさんってどんな人なの?」

 そう問いかけてきたので僕は半身を起こし、一つ溜息をついて、

「僕を生んでくれた人だよ」

 彼女を真正面から見つめるために、首を右へと向けて薄く笑んだ。

 しばらく眠る彼女を抱えて進み、目覚めてからは歩みを速め、流れのきつくなった夕方、この洞穴を見つけて休んでから何時間が経つのだろう。宵闇の所為なのか、嵐の所為なのか、洞穴の外も真っ暗だ。

「え? あの、だって、アメルには母様がいるのでしょ?」

 さすがにルーラは意味不明といった様子だった。人魚は誰も知らないのだろうか──大ばば様でさえも。

「確かに僕は、僕の母さんから生まれてきた。でも男性である父さんがいなければ、人間は生まれてこられないんだよ」

 微かに光るルラの石に照らされたルーラの表情は、益々理解不能な装いになってきたが、僕自身もこれ以上答えられるのか複雑な心境だった。

「えっとぉ、じゃあ、だったら──」
「え!?」

 その時、一瞬にして暗闇を貫いた一筋の閃光。

「はっ……」

 僕達は言葉どころか、息すらも止まってしまいそうなほど驚いていたに違いない。

「何っ……何なの!?」
「ルーラ!」

 彼女は僕の腕を掴んだまま、後ずさりをした。

「怖い……アメル。こんなこと、一度も起きたことないのにっ」
「落ち着いて、ルーラ。とにかく外へ出たら駄目だよ。嵐に巻き込まれるっ」

 それでもルーラは動きを止められずにいた。

 光は洞穴の入口正反対へ向け、一直線に放たれているが、それは岩壁を抜け、海上を目指しているようだ──ルーラの首元から。
 ルラの石が光源となっているのだ。

「どうしちゃったの? どうしたら消えるの!?」
「ダメだよっ、ルーラ!」

 完全に彼女は自分を見失っていた。

 光は益々強くなり、ついには目を開けているのも困難で、唯一彼女が握る右腕の感覚だけが頼りだった。それも徐々に弱まっていく。ルーラの逃げ出したい気持ちが出口へと寄せ、急いで彼女の腕を掴もうと努めたが一足遅かった。

 僕は津波のような海水に襲われ一瞬動転したが、ルーラを求めて光の源へと泳ぎ出した。洞穴の外で海上に続く光がゆらゆらと揺れている。ルーラが恐怖に(おのの)きながら暴れているのだ。しかし光の指し示す場所は一定で、少しずつこちらに近付いているようだった。

 嵐の起こす水のうねりが激しくて思うように進めない。依然我を忘れたルーラは僕に気付ける余裕もなく、光を引き離そうと両腕を振り回し焦燥しきっていた。

 ──ルーラ。

 あと一歩というところで海の濁りから彼女を見失い、更に僕は息が続かなくなった。仕方なく海面へ方向を変え、力の限り泳ぎ切って、何とか浮上して思い切り息を吸った。本来なら海底深く潜り一晩嵐をやり過ごすつもりだったが、何か遭った時のためにと、水深の浅い洞穴を探しておいたのが、僕の命に幸いした。

 波の上には雷雨はないが、酷い風が吹いている。やはり夜は更けていたようで、漆黒の空は雲の輪郭すら見えない。

 僕は息を整えて再びルーラの元へ潜ろうと考えたが、背後に大きな気配と人間らしき騒めき、そしてルラの石の光明を感じて振り返った。
 そこには激しい光線に晒され、ルーラの如く慌てふためく船員達を乗せた大きな船が、波と風に揺らされていた。

 こちらも潮に翻弄されて良くは見えないが、甲板の上はまるでお祭り騒ぎだ。海中からの奇怪な光を船縁から覗き込み落ちそうになる者、帆柱にしがみつき神へ祈る者、混乱しているのか光に向けてランプを(かざ)し海面を探る者……ならば。一か八か殺されないことを祈って、コンタクトを取るのも手かもしれない。僕は船へ向けて荒波を掻き分けた。

「おーいっ、おーいっ!」

 ルラの石の光線に照らされるよう立ち泳ぎしながら、波に呑まれない程度で腕を振る。叫んでも風と波、船の(きし)む音で聞こえはしないだろうが、知らず声が出ていた。

「おーいっ! 助けてくれーっ」

 続ける内にようやく気付いてもらえたらしく、船上の人の動きが変わった。
 ややあって目の前の船体にロープが垂れてくる。僕は既に泳ぐのもままならないほど体力を消耗していたが、最後の力を振り絞って固く握り締め、ゆっくりと引き上げられた。

「お前……一体何処から来たんだ。この光が何なのか知っているのか?」

 甲板に座り込んで肩で息をする僕に、まるで珍しい物でも見るように集まった数名の船員は、落ち着く間もなく質問をまくし立てた。

「あの……助けて……くださって……ありが……とうござい……ましたっ」

 言葉が通じるということは、どうやらイタリアの船のようだ。以前の父さん、そして先日までの僕の船のように貿易を行なう船なのだろう。

「まぁ、皆待ちなさい。とにかくこれでも飲んで、水だよ。私はこの船の船長のジョルジョだ。さぁ、此処で休みなさい」

 僕を取り囲むようにしゃがみ込んだ船員達の後ろから、低く通る声で現れた船長は、まさしく海の男といった屈強な肢体の持ち主ながら、顔つきもその話し方も優しかった。大きな器に飲み水をなみなみと注いで手渡し、僕をマットの上に座らせてくれた。
 僕はそれを一気に飲み干し、

「ありがとうございますっ。えっと……僕はアメリゴといいます。実は僕の方が訊きたくて此処に来たんです! あの光に心当たりのある方はいらっしゃいませんか? ……僕達、突然石が光ってこの船を照らし出したので、訳が分からなくて……」
「石……? 僕達って他にもいるのか!? それって……」

 この人達を百パーセント信用して良いのか分からない。しかし船長の、この騒ぎの中でも冷静さを失くさない表情を見ている内に、僕は自分の事情の断片をいつの間にか語っていた。






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