Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]
[父] -1-2-
波よ、風よ、教えておくれ
我の同志を 何処へ隠した?
海が全てに繋がるならば
我の同志を 見つけておくれ……
風の雑音に紛れて、透き通るルーラの歌声が響いてきたことに気付いたのは、僕と、そして船長であった。というのも、船員達は皆シレーネの唄に魅了され、朦朧と顔を床に付け出す者、既に気絶したかのように横たわる者達で溢れていたからだ。
──ルーラが僕を探している。でも一体、何故……?
僕は目の前でバタバタと倒れ出す船員と、それを揺さぶり起こそうとする船長を見つめて絶句していた。何故だ? 何故この人には効かない?
「君にも聞こえているのか?」
とにかく息だけはしていることを確かめた船長は、船員からこちらへと目を向けて問いかけた。
「……はい」
「何故、君には効かない? ……まぁ、君も同じことを訊きたいだろうが」
そう言い終わるや否や、ジョルジョと名乗ったその船長は、何かを探し出すように周りを見回しながら、表情は何処となく嬉しそうであった。
「彼女が歌っているのは、僕を探す唄だからだと思います……船長、貴方こそ」
「彼女……やはり、シレーネなのか! テラの子か?」
「テラの子……?」
ルーラの声は徐々に大きく、というより近付いていた。光の源もより近く、そして少しずつ上昇してきている。やがて彼女は光に包まれて現れた。魔法の力なのか空中を浮遊して、唇は唄を奏でているが、僕にはルーラの心の声が聞こえた。
──アメル、助けて……
「ルーラ!」
彼女はもはや石の放つ光のエネルギーで、自己を保つ力も失いかけているようだった。甲板の手摺より更に上昇すると、光はまるで獲物を捉えたように、船長の身体目掛けて更に力強く放出され彼を包んだ。
「ルーラというのか……そうだ、そうだな。考えてみれば解ることだ」
立ち上がって、目も眩むほどに眩しく光るルーラを真正面から見据えた船長は、そう独り言を呟きながらゆっくりと歩みを始めた──ルーラへと向かって。
「アメル! アメル!!」
それを見て、ルーラは咄嗟に船の際から海上へとこちらを向いたまま離れてしまった。
唄は止んだ。しかししばらく船員達は目覚めないようだ。
ルラの石の目的はこの船長なのか? 歌声にシレーネを予測出来た人。
「ルーラ、おいで! この人は大丈夫だから……さぁっ」
僕は陸に打ち上げられた魚のように連なる船員達の群れを飛び越して、出来るだけ船長から離れた舳先より彼女を呼び寄せた。途端ルーラは一目散といった様子で僕の胸に飛び込んできた。
──『この人は大丈夫だから』 何故だろう……何故かそう思える。
「アメル! アメル!!」
けれどルーラはすっかり動転していた。移動してもなお石は輝き、船長を指し示している。
「ごめんよ、ルーラ、独りにして……この人は怖くないよ。僕を助けてくれたんだ。お願いだから……落ち着いて。この人は怖くない」
抱きつき、僕の手を握るその力は、今までにないほど強かった。二人しゃがみ込んで、ゆっくりと近付く船長に目を向けるや、彼女の全身の震えは一層激しくなった。
「分からない……どうして!? どうしてあたしの唄が効かないの?」
彼女の濡れた艶やかな髪を撫でる。心臓の高鳴りが聞こえる。止め処なく大粒の涙が溢れて、僕の腕にはらはらと落ちた。無意識に彼女の長い睫に、僕は口づけをしていた。
「テラは何も話していないのか……」
あと数歩という所で船長は足を止めた。動揺するルーラを見つめて、愕然としたように頭を垂れていた。
「船長……あなたは、一体……?」
僕はルーラに目を向けたまま問いかけた。
その切なそうな苦悩する表情は、ルーラの苦しむ姿と重なり、心の中で何かが繋がった。
「ルーラといったね……もし君がテラの子ならば、私は君の父親だ」
涙を拭う手を止め、僕はハッと船長の姿を見た。ルラの石が光らなければ、もしかしたらこの人は告げなかったかもしれない。そう思えるくらい哀しい面持ちをしていた。
「父親……どういうことです……? 人魚には……」
僕までが混乱の波に呑み込まれそうだった。母親しかいない筈のルーラに、人間の父親?
「アメル……『ちちおや』って?」
今だ半べそ状態のルーラが訊ねてきたが……いいのか? 説明しても。でももはや後戻りも出来ない。
僕はルーラを包み込むように抱き締めた。今のルーラに受け止められるのか? もしもこれが現実だとしても。
「洞窟の中で話したね。『父さん』ってことだよ」
「アメルの『とうさん』なの?」
寒がるように、彼女はその冷たい頬を僕のそれに寄せた。尚も流れる熱い涙が、僕達の間を滑っていく。僕は意を決して、
「いや……彼は君の父さんだと言っている──」
告げるや否や、彼女の全身が硬直した。数秒呼吸が止まり、やっと息を吐いたかと思うと「分からない……分からない」と繰り返し出した。
「ルーラ……」
僕は、震え、この『今』という時から逃げ出そうと抗うルーラを抱き留めることしか出来なかった。
「ルーラ……」
そして船長も呆然と立ち尽くすことしか出来ずにいた。
「分からない……分からないっ! いやぁぁぁぁぁっ」
天を切り裂くほどの叫び声と共に、光はこれ以上有り得ないエネルギーを放出して──そして、止んだ。
ルーラは事切れたかの如く失神していた。
腕の中の彼女は力なく重く、泣き腫らした顔は赤みを帯びていた。これほどまでの動揺と混乱を抱えた姿を見るのは、父の一報を聞いたあの時の母が、最初で最後だと思っていたのに──。
「……気絶、しました」
僕は彼女の額に纏わりつく前髪を優しく寄せてやり、船長を見上げた。既に足元まで近付いていた彼は、疲れたように腰を降ろし、その瞳には溢れんばかりの涙を湛えていた。
「アメリゴ君といったかな……すまなかったね……」
「アメルと呼んでください。あ……いや、あの──」
船長は僕の腕の中で眠ったように動かないルーラの頬に、触れようと手を伸ばしたが、一瞬躊躇してやめてしまった。未だ父親として受け入れられていないという現実が、彼にためらいをもたらしているようだった。
「これは伝説だがね──シレーネは『完全な知識を約束する者』といわれ、その知識を欲する航海者達はシレーネの誘惑に負け、命を落としてきたそうだ。だがオデュッセウスが帆柱に身を縛り難を逃れた時、シレーネは錯乱して身を投げてしまった……彼女達は自己の持つ常識以外の物に直面することを酷く畏れる──ルーラのあの反応も、そういったシレーネの末裔としての性質が出たんだろう……」
「あの……」
僕は何処から尋ねたら良いのか分からなくなっていた。やがて嵐は弱まり、シーソーのように揺れ続けていた船上は、徐々に平穏へと向かい始めていた。
この嵐は、シレーネであるルーラの影響だったのかもしれない。
船員達も次々と正気を取り戻したようだ。だるそうに立ち上がりながら僕の腕の中を見てはギョッとしていたが、船長のただならぬ雰囲気に言葉を発せられずにいた。
「間違いなく彼女は私の娘だよ……いや、まずはルーラを休ませよう。船底に空のコンテナがある。船員に海水を張らせるから、アメル……君はルーラを運んでやってくれ」
この騒動が彼にかなりの疲労を与えていた。難儀な様子で立ち上がり船員に指示を出した後、少し独りにさせてくれと言い残して、船長室に籠もってしまった。
そして僕は、依然僕を遠巻きに誘う船員を先頭に、微塵も動こうとしないルーラを抱えて、薄暗い船底へ降りていった──。
◇ ◇ ◇
コンテナは思ったよりも大きくて深く、しっかりとしていた。数人の船員が甲板からバケツを垂らし、海水を注ぎ続けること十数分。ようやく半分ほどの水位となったので、お礼を言って引き上げてもらった。
自分ごとコンテナの壁を乗り越えたが、ウィズの魔法は今も続いていて、僕の膝上まで水位がありながら濡れることはなかった。
ゆっくりとルーラを水中に降ろし、波が治まるまで見つめる。
既に外は白み始めていた。船長は未だ来る気配もないし、僕もコンテナの傍で少し眠ろうか。
しかし立ち上がろうとして僕は驚いた。背中を支えていた僕の右手は、ルーラの左手でしっかりと握られているのだ。此処で眠れと言わんばかりに──。
「仰せの通りに。人魚姫」
僕はそう語りかけてクスッと笑った。繋がれた手と手はそのままに、他方の腕でルーラの頭を支えてあげると、顔が真正面から見られた。
その表情は先程までの強ばった苦しそうなものではなく、すっかり和らいで深い寝息を立てている。僕は安心して、と同時に急激な睡魔に襲われた。
──アメルと手を繋いでいると、温かくて勇気も出てくるわ。
以前のルーラの台詞をふと思い出す。
少しは役に立っているのかな?
掴まれた手を繋ぎ直せば、ルーラの表情が更に笑みを帯びた。
──守るよ。君のことは、僕が絶対。
瞳を閉じてもルラの石の明るさが瞼に感じられたが、僕は次第に闇へと墜ちていった──。
我の同志を 何処へ隠した?
海が全てに繋がるならば
我の同志を 見つけておくれ……
風の雑音に紛れて、透き通るルーラの歌声が響いてきたことに気付いたのは、僕と、そして船長であった。というのも、船員達は皆シレーネの唄に魅了され、朦朧と顔を床に付け出す者、既に気絶したかのように横たわる者達で溢れていたからだ。
──ルーラが僕を探している。でも一体、何故……?
僕は目の前でバタバタと倒れ出す船員と、それを揺さぶり起こそうとする船長を見つめて絶句していた。何故だ? 何故この人には効かない?
「君にも聞こえているのか?」
とにかく息だけはしていることを確かめた船長は、船員からこちらへと目を向けて問いかけた。
「……はい」
「何故、君には効かない? ……まぁ、君も同じことを訊きたいだろうが」
そう言い終わるや否や、ジョルジョと名乗ったその船長は、何かを探し出すように周りを見回しながら、表情は何処となく嬉しそうであった。
「彼女が歌っているのは、僕を探す唄だからだと思います……船長、貴方こそ」
「彼女……やはり、シレーネなのか! テラの子か?」
「テラの子……?」
ルーラの声は徐々に大きく、というより近付いていた。光の源もより近く、そして少しずつ上昇してきている。やがて彼女は光に包まれて現れた。魔法の力なのか空中を浮遊して、唇は唄を奏でているが、僕にはルーラの心の声が聞こえた。
──アメル、助けて……
「ルーラ!」
彼女はもはや石の放つ光のエネルギーで、自己を保つ力も失いかけているようだった。甲板の手摺より更に上昇すると、光はまるで獲物を捉えたように、船長の身体目掛けて更に力強く放出され彼を包んだ。
「ルーラというのか……そうだ、そうだな。考えてみれば解ることだ」
立ち上がって、目も眩むほどに眩しく光るルーラを真正面から見据えた船長は、そう独り言を呟きながらゆっくりと歩みを始めた──ルーラへと向かって。
「アメル! アメル!!」
それを見て、ルーラは咄嗟に船の際から海上へとこちらを向いたまま離れてしまった。
唄は止んだ。しかししばらく船員達は目覚めないようだ。
ルラの石の目的はこの船長なのか? 歌声にシレーネを予測出来た人。
「ルーラ、おいで! この人は大丈夫だから……さぁっ」
僕は陸に打ち上げられた魚のように連なる船員達の群れを飛び越して、出来るだけ船長から離れた舳先より彼女を呼び寄せた。途端ルーラは一目散といった様子で僕の胸に飛び込んできた。
──『この人は大丈夫だから』 何故だろう……何故かそう思える。
「アメル! アメル!!」
けれどルーラはすっかり動転していた。移動してもなお石は輝き、船長を指し示している。
「ごめんよ、ルーラ、独りにして……この人は怖くないよ。僕を助けてくれたんだ。お願いだから……落ち着いて。この人は怖くない」
抱きつき、僕の手を握るその力は、今までにないほど強かった。二人しゃがみ込んで、ゆっくりと近付く船長に目を向けるや、彼女の全身の震えは一層激しくなった。
「分からない……どうして!? どうしてあたしの唄が効かないの?」
彼女の濡れた艶やかな髪を撫でる。心臓の高鳴りが聞こえる。止め処なく大粒の涙が溢れて、僕の腕にはらはらと落ちた。無意識に彼女の長い睫に、僕は口づけをしていた。
「テラは何も話していないのか……」
あと数歩という所で船長は足を止めた。動揺するルーラを見つめて、愕然としたように頭を垂れていた。
「船長……あなたは、一体……?」
僕はルーラに目を向けたまま問いかけた。
その切なそうな苦悩する表情は、ルーラの苦しむ姿と重なり、心の中で何かが繋がった。
「ルーラといったね……もし君がテラの子ならば、私は君の父親だ」
涙を拭う手を止め、僕はハッと船長の姿を見た。ルラの石が光らなければ、もしかしたらこの人は告げなかったかもしれない。そう思えるくらい哀しい面持ちをしていた。
「父親……どういうことです……? 人魚には……」
僕までが混乱の波に呑み込まれそうだった。母親しかいない筈のルーラに、人間の父親?
「アメル……『ちちおや』って?」
今だ半べそ状態のルーラが訊ねてきたが……いいのか? 説明しても。でももはや後戻りも出来ない。
僕はルーラを包み込むように抱き締めた。今のルーラに受け止められるのか? もしもこれが現実だとしても。
「洞窟の中で話したね。『父さん』ってことだよ」
「アメルの『とうさん』なの?」
寒がるように、彼女はその冷たい頬を僕のそれに寄せた。尚も流れる熱い涙が、僕達の間を滑っていく。僕は意を決して、
「いや……彼は君の父さんだと言っている──」
告げるや否や、彼女の全身が硬直した。数秒呼吸が止まり、やっと息を吐いたかと思うと「分からない……分からない」と繰り返し出した。
「ルーラ……」
僕は、震え、この『今』という時から逃げ出そうと抗うルーラを抱き留めることしか出来なかった。
「ルーラ……」
そして船長も呆然と立ち尽くすことしか出来ずにいた。
「分からない……分からないっ! いやぁぁぁぁぁっ」
天を切り裂くほどの叫び声と共に、光はこれ以上有り得ないエネルギーを放出して──そして、止んだ。
ルーラは事切れたかの如く失神していた。
腕の中の彼女は力なく重く、泣き腫らした顔は赤みを帯びていた。これほどまでの動揺と混乱を抱えた姿を見るのは、父の一報を聞いたあの時の母が、最初で最後だと思っていたのに──。
「……気絶、しました」
僕は彼女の額に纏わりつく前髪を優しく寄せてやり、船長を見上げた。既に足元まで近付いていた彼は、疲れたように腰を降ろし、その瞳には溢れんばかりの涙を湛えていた。
「アメリゴ君といったかな……すまなかったね……」
「アメルと呼んでください。あ……いや、あの──」
船長は僕の腕の中で眠ったように動かないルーラの頬に、触れようと手を伸ばしたが、一瞬躊躇してやめてしまった。未だ父親として受け入れられていないという現実が、彼にためらいをもたらしているようだった。
「これは伝説だがね──シレーネは『完全な知識を約束する者』といわれ、その知識を欲する航海者達はシレーネの誘惑に負け、命を落としてきたそうだ。だがオデュッセウスが帆柱に身を縛り難を逃れた時、シレーネは錯乱して身を投げてしまった……彼女達は自己の持つ常識以外の物に直面することを酷く畏れる──ルーラのあの反応も、そういったシレーネの末裔としての性質が出たんだろう……」
「あの……」
僕は何処から尋ねたら良いのか分からなくなっていた。やがて嵐は弱まり、シーソーのように揺れ続けていた船上は、徐々に平穏へと向かい始めていた。
この嵐は、シレーネであるルーラの影響だったのかもしれない。
船員達も次々と正気を取り戻したようだ。だるそうに立ち上がりながら僕の腕の中を見てはギョッとしていたが、船長のただならぬ雰囲気に言葉を発せられずにいた。
「間違いなく彼女は私の娘だよ……いや、まずはルーラを休ませよう。船底に空のコンテナがある。船員に海水を張らせるから、アメル……君はルーラを運んでやってくれ」
この騒動が彼にかなりの疲労を与えていた。難儀な様子で立ち上がり船員に指示を出した後、少し独りにさせてくれと言い残して、船長室に籠もってしまった。
そして僕は、依然僕を遠巻きに誘う船員を先頭に、微塵も動こうとしないルーラを抱えて、薄暗い船底へ降りていった──。
◇ ◇ ◇
コンテナは思ったよりも大きくて深く、しっかりとしていた。数人の船員が甲板からバケツを垂らし、海水を注ぎ続けること十数分。ようやく半分ほどの水位となったので、お礼を言って引き上げてもらった。
自分ごとコンテナの壁を乗り越えたが、ウィズの魔法は今も続いていて、僕の膝上まで水位がありながら濡れることはなかった。
ゆっくりとルーラを水中に降ろし、波が治まるまで見つめる。
既に外は白み始めていた。船長は未だ来る気配もないし、僕もコンテナの傍で少し眠ろうか。
しかし立ち上がろうとして僕は驚いた。背中を支えていた僕の右手は、ルーラの左手でしっかりと握られているのだ。此処で眠れと言わんばかりに──。
「仰せの通りに。人魚姫」
僕はそう語りかけてクスッと笑った。繋がれた手と手はそのままに、他方の腕でルーラの頭を支えてあげると、顔が真正面から見られた。
その表情は先程までの強ばった苦しそうなものではなく、すっかり和らいで深い寝息を立てている。僕は安心して、と同時に急激な睡魔に襲われた。
──アメルと手を繋いでいると、温かくて勇気も出てくるわ。
以前のルーラの台詞をふと思い出す。
少しは役に立っているのかな?
掴まれた手を繋ぎ直せば、ルーラの表情が更に笑みを帯びた。
──守るよ。君のことは、僕が絶対。
瞳を閉じてもルラの石の明るさが瞼に感じられたが、僕は次第に闇へと墜ちていった──。