Sapphire Lagoon[サファイア・ラグーン1作目]

[人] -2- (※&★)

「こんにちは」

 彼女はそう言った。
 雨をしのぐために掛けておいた救命用ボートのシートで身をくるみ、僕の方を大きな丸い、好奇心を膨らませた瞳で見つめている。

「こ……こんにちは」

 いつの間にか、僕は魅せられていた。
 自然と口が開いて、彼女の元へと足を運んでいた。

「あなた……人間でしょ? さっき見てたんだ、どうしてやり返さなかったの?」

 ──人間でしょ?

 変なことを訊く少女だ。自分だって人間なのに。流暢なイタリア語を話すけれど、イタリア人ではない感じがする。いつから乗っていたのだろう? 密航者なのか? 髪が濡れていることから見ても、初めから乗っていた訳ではないらしい……なんて、僕の頭の中では謎が立ち込めている。

 白金(きん)色の髪。
 まるでライオンのたてがみのような、濡れてもなびく美しい髪。

「どうしてあんなに悔しい想いをしてまでここにいるの?」

 彼女はまだ十七の僕と同じくらいの少女だった。

 後々気付くことなのだけど、まるで吸い寄せられるように彼女の隣に座り、僕は話を聞き始めていた。白く滑る肌。鎖骨辺りにはまだあどけなさが残り、首元には水色の八面体をした石が輝いている。

「……僕は船乗りになりたいんだ……だからここで見習いをして……」
「ふうん」
「君、一体いつから……それに、何でシートなんかにくるまってるんだい? 船員に見つかったら大変だよ」
「この船は、どこへ行くの?」

 彼女は僕の問いに全く耳を貸さず、真っ直ぐ船の進む方角へ目を向けていた。僕は半ば催眠状態のまま、

「地中海の島々やエジプトなんかだよ。貿易をしているんだ」

 彼女の鼻先が示す海の彼方へと目をやった。
 このおんぼろ船はもう十五年以上海を走っているそうだ。近々新しい船に買い替えるという話も出ている。でも僕はこの船が好きだ。五年間僕に仕事を与え、夢を与えてきてくれたのだから。

「名前」
「え?」
「名前、何ていうの? あなたの名前」

 突然彼女は真剣な眼差しで僕を見つめた。といってもその大きな瞳は僕だけではなく、空や船や、まるで幼子のように──初めてそれを見るように(せわ)しないのだが。

「アメリゴ。アメリゴ=フェリーニ。アメルでいいよ……君は?」

 彼女が落ち着きをなくしている内に呼吸を整え、僕は答えた。

「あたしは……ル」

 彼女はふと口をつぐむ。
 何故自分の名を明かすことくらいで、これほどの不安に襲われるのだろう?

「……あたし……ルーラ」

 船の波を押す鈍い音に、消え入りそうな過細い声だった。

 ──ルーラ。

 少なくともイタリアの名前ではない。
 彼女は僕のそんな不審を帯びる表情に気付いたのか、

「嘘なんかじゃないわ、本当の名前よ。あたし達の一族は、深海の底で採れる宝石から名を得るの。この首に掛かっているのが『ルラ』という石だから、あたしの名はルーラ。あたしの姉様(ねえさま)はカームという石を持っているから、カミルというわ。大ばばのウイスタ様はウィズからきていて、あ、それから……」
「分かった。信じるよ」

 僕は彼女の必死な主張にちょっと驚いて、解釈も出来ぬ内から返事をした。

 けれどやっぱりいまいち信じ難い話だ。
 宝石から名が付くとしても、一体誰がどうやって深い海の底から、それを拾ってくるというのだ。大体一族ってどれくらいの人数なのだろう? 全ての名を付けられるほど、この世の中には沢山あるものなのだろうか。

「信じてないでしょ? いいわよ、別に信じなくても。あたしだってあんなに色んな石があるだなんて思えなかったもの」

 彼女はいささか拗ね気味に向こうを向いてしまった。
 何て美しい金髪なのだろう。
 まるで一本一本が光の糸のように風に響いて、背を向けた所為で僕の頬にまとわりつく。
 透き通ったホワイト・ゴールド。
 僕の顔を泳ぎ……

「……ふぁっ……くしょんっ!」
「きゃっ」

 くすぐったさに耐えきれず、僕は思わずクシャミをした。

「あ、ごめん。君の髪が鼻を……」
「え? ああ……あたしこそごめんなさい、怒ったりして。初めて外に出たものだから、気持ちが逆立ってるの」

 ルーラというその少女は、うつむいて真っ赤な小さな舌を出した。

 好奇心の大きさは感じ取れるが、初めて外に出たという割に驚きは見えなかった。どうして外出したことがなかったのだろう? ずっと病気で禁止されていたのだろうか? ……なんてことも考えてみたが、病弱とは思えないほど体力もありそうで血色もいい。

「君は色んな物を見ても驚かないんだね」

 僕は薄く笑んで言い、

「大ばば様に、良く話を聞かされていたから」

 彼女はまばゆく笑った。
 今日は本当にいい天気だ。まるで彼女の笑顔のように……そして静かな──。



 ああ、海に準ずる者よ
 海の神 ネプチューンよ
 しばし何人(なんびと)をも静まらせ
 風と波を(しるし)めよ
 その誇らしい歌声に
 (ひそ)む誓約の血潮に
 ああ、海を友とする者よ
 海の神 ネプチューンよ
 高らかな波と唄を持つ
 シレーネ、今、導き──



 美しい歌声。
 それは彼女の方から聞こえた。いや、聞こえた訳ではなく、彼女自身が歌っていた訳で……何だろう、僕を惹き込む強い想い。けれど惹きつけると共に引き離し、僕の心を揺るがせているような……──。

「ごめん……変な気分になったでしょ。あたしったら、まだ修行不足で……」
「いっ、いや……あ……」

 彼女の苦笑いに、僕は魂でも抜かれたような、くすんだいかれ声を返した。

 ──シレーネ。

 それはきっと僕達イタリア人がいうところの『シレーナ』だ。何故この唄を知っているのだろう。この唄を──。
 胸が苦しくなる。この唄は僕の未来への唄。僕の夢を運ぶ唄……。

「どうして、その唄を……」

 自然と声が震えていた。
 惑う瞳を隠すために立ち上がり、背中を向ける。嫌だな、この感覚。逃げてるみたいだ。覚悟が出来てない。

「あたし達の一族に伝わる唄よ。大ばば様に教えてもらったわ」

 彼女の柔らかな視線が、いやに背中に沁みた。

「君は……シレーナ、いや、シレーネを知っているの……?」

 恐る恐る問いかけてみる。

「ん……知っているといえば知っているのだけど、今、シレーネはいないの……」
「嘘だっ!!」
「きゃっ」

 僕は知らず大声を上げていた。

 シレーネがいない。
 だったら僕のこの五年間は一体何だったというのだ。毎日汗水垂らして甲板を磨き、修理・料理の手伝い・帆の上げ下げ、果ては船員の服の洗濯や(つくろ)いまで……僕は寝る時間まで()いて、母、そして僕の夢のために頑張ってきたというのに。

「嘘じゃないわ。シレーネは百五十年前からいないの……」

 哀しそうな声だった。

 瞳を閉じれば、さっきのルーラの歌声が胸を巡る。でもシレーネはいない訳で、僕は……。

「僕が船乗りになりたいと思ったのは、シレーネに会いたかったからなんだ──」
「え……?」

 僕は座り込んで、背中で話を始めた。

「でもっ! そんなの神話の時代のお話でしょ!? 大体身体半分が鳥の化け物なんかに会って何だっていうの? 殺されるだけよ!」
「違うっ! ……違うんだ。確かに昔は鳥だったけれど、海に身を投げて美しい人魚に生まれ変わったんだ。ずっと昔の物語だけど、人魚の目撃談はいつの時代にもあった。僕は命なんかいらないんだ。唄を聴ければ……話をすることが出来れば、それでいい」
「ばか」
「え?」

 今度は僕が驚く番だった。
 振り返ると彼女は肩で笑っていた。どうも笑いをこらえているらしい。僕は急に腹が立った。誰にだって、たとえ会ったばかりでお互いを知らない彼女にだって、僕の夢を笑う権利はない。

「ごめんなさい……あなたがあんまり真剣に反論するものだから。……本当のことを教えてあげるわ。あのね……」

 それから彼女はシレーネについて、沢山の話をしてくれた。

 確かに昔の半人半鳥のシレーネは海に身を投げ、半人半魚──つまり人魚となって海の底に住んでいるということ。
 『シレーネ』というのは人魚の中の最高の位のことで、百五十年前からその地位に就く者がいないということ。
 その者は十六歳の誕生日にあらゆる魔法を与えられ、『結界』という彼女達の住処(すみか)の安定維持に従事するということ。
 そして今日、シレーネの位に就く者がいるかもしれないということ!

 他にも沢山、彼女は知っていた。

何処(どこ)でそんなにシレーネのことを知ったの?」
「大ばば様は何でも知っているわ」

 シートに身を丸めた彼女は笑ったが、それからすぐに顔色を曇らせてしまった。遠くの一点を見つめる横顔は淋しそうで、こちらにはそれ以外の何物も伝わってこない。

 どうしてそんなに哀しい顔をするの? 君は一体誰──?

 訊いても答えてはくれない気がした。今までそれとなくはぐらかされてきたのだ。きっと答える筈もない。
 彼女がもし人魚で、シレーネの位を与えられることになってもこんな表情は変わらないのかもしれない。彼女は……──。

 いや、違う。
 僕は彼女の横顔に胸を衝かれた。

 もしじゃない。本当に彼女が人魚であったなら……──海底から宝石を探してくることだって出来る!

「おーいっ、ぼうず! 掃除は終わったかぁ」

 甲板が震えるほどの足音で、船員が僕らの方に近付きつつあった。
 まずいな──甲板磨きはやっていないし、第一彼女のこともある。

「あたし、帰るわ」
「え? ……ま、また会える?」

 咄嗟に現れた言葉は、たったそれだけだった。

「多分。シレーネになれたなら」
「……!!」

 僕は一瞬目を疑った。彼女が立ち上がった。すっとシートが身体の線を描いて落ちる。僕はすぐには声が出せなかった。

「ル……ラ……」

 真紅の、胸を包む背中の大きなリボンが、僕の目の前に突如飛び出した。見える全てが真っ赤に、そして真っ青に。

「シレ……ネ……」

 消えるひととき。僕はルーラの笑い声を聞いた気がした。
 美しい瑠璃色の鱗に覆われた人魚が、藍色の海へ溶け込むそのひとときに──。







◇仲良くさせていただいております五月七日ヤマネコ様が私のイラストに色を付けてくださいました♡
ヤマネコ様、誠に有難うございました!!




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