ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ

第十五話 「それぞれのピアノ」

 金曜の夜、ベルベットコード。
 開店後間もない時間、杏果は店のドアをくぐった。

 今夜は、飛弦がステージに立つ日だった。
 杏果は、ひとりの客として、この飛弦のピアノを聞きたかった。

 選んだのは、ピアノを演奏する姿がよく見える、ステージ側に向いたカウンターの席。
 杏果はメニューを開かず、静かに「ノンアルコールのカクテルを」とだけ注文した。

 やがて、仁美が近づき、声をかけてきた。

「杏果ちゃん、来てたのね。……飛弦くんのピアノ、聴きにきたのかしら?」
 
「はい。この席から聴いてみたくて……」
 杏果は照れたように、けれどどこかまっすぐな声でそう答えた。

 演奏時間が近づくと、照明が少しだけ落ち、ステージには柔らかな照明が当てられた。

 グランドピアノの前に、飛弦が現れた。
 ゆったりと腰を下ろし、指先が鍵盤に触れる。

 最初の音は、深い静けさから滲み出るように始まった。
 演奏は《My Funny Valentine》。
 金曜の夜、一週間の疲れを静かに溶かしていくような、優しく包み込むような音だった。

 メロディが1コーラス流れ、やがて飛弦はアドリブに入る。
 コードの中を泳ぐように、軽やかでいて深い響きが店内に染み込んでいく。

 杏果は、その演奏に身を預けていた。
 ふと、胸の奥から自然にこぼれた声。

「……私は、こんなふうには弾けない」

 その声に応えるように、背後から柔らかな声が届いた。

「でも、あなたにしか弾けない音もあるわ」

 振り返ると、仁美がそっと立っていた。
 グラスを手にしたまま、穏やかな笑みを浮かべている。

 杏果は驚いたように一瞬目を見開き、やがて、静かに微笑んだ。

   ◇◇

 土曜日。昼下がりのベルベットコード。
 開店準備も始まっていない、静かな午後。

 杏果は、ステージのピアノの前に座っていた。
 店内の照明は落ちたまま。薄く差し込む窓からの光だけが、鍵盤の上を淡く照らしている。

 譜面は置いていない。
 ドビュッシーの《月の光》。その旋律は、手に残っている。

 杏果は深く息を吸い、そっと鍵盤に指を置いた。

 最初の音が、まるで夜の湖面に映る月のように、静かに店内に広がる。

 音は極限まで抑えられ、でも確かに響いていた。
 ペダルが作る残響が、時間の流れをゆっくりに変える。

 杏果は、音を置くようにして弾いていた。ひとつずつ、確かめるように。

 やがて最後のフレーズが、風のように消えていく。

 静寂が戻る。
 杏果は指を鍵盤から離し、そっと息を吐いた。

「……静かすぎて、途中で息止めそうだった」

 驚いて振り向くと、飛弦がステージ脇の壁にもたれて立っていた。
 いつからそこにいたのか、わからなかった。

 彼は腕を組んだまま、表情を変えずに言った。

「ピアノって、こんなに“間”で表現できるんだな」

 杏果は戸惑いながらも、微笑んだ。
 自分の表現が、飛弦にちゃんと伝わっていたことが、嬉しかった。

 飛弦は、ゆっくりとカウンターの方へ歩き出した。
 立ち去り際、ぽつりと背中越しに言った。

「……たまには、静かなのも、いいな」 
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