ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ
第十七話 「元カレ」
その日は、ふだんより少しだけ客の入りが多かった。
杏果の演奏が、ホームページで定期スケジュールに掲載されるようになってから、
少しずつだが「彼女の音を聴きに来た」という客が増えてきていた。
いつものように、控えめなステージ。
杏果はフォーレの《夢のあとに》を弾いていた。
まるで、遠くに流れていった感情の残響をすくい上げるようなその旋律。
鍵盤に向かう杏果の横顔は、静かに光に照らされていた。
曲が終わり、拍手がやさしく広がる。
杏果が深くお辞儀をし、ステージを降りようとした、そのときだった。
カウンターの端。
そこに座る、見覚えのある姿に気づいた。
黒いジャケットに、整えられた髪。
大学進学とともに上京し、やがて自然と疎遠になった、——元カレだった。
杏果の足が、一瞬だけ止まる。
けれどすぐに呼吸を整え、ゆっくりと客席を通り過ぎた。
彼のほうから、声がかかったのは、演奏後、飲み物を受け取りに来たときだった。
「……やっぱり、杏果だったんだな」
杏果は驚いたように振り向き、少しだけ笑った。
「久しぶり。……元気だった?」
「うん、まあ。……たまたまサイトで名前見つけてさ。来てみた」
言葉は穏やかだったけれど、どこか過去形のぬるさがあった。
杏果はそれに、懐かしさではなく、遠さを感じていた。
「昔と変わらないな、って思ったよ。……でも、前より優しくなったかもしれない」
「そう? ……今は、自分のために弾いてるから、かもね」
言葉に出して、自分でも少し驚いた。
あの頃は、“評価されるため”に、“結果を出すため”に弾いていた。
でも今は違う。音を、誰かと共有するために弾いている。
元カレは、グラスの縁を指でなぞりながら、少し視線をそらす。
「……なんか、ちょっと綺麗になったよな」
杏果は、その言葉に、笑いも返さずただ首をかしげた。
「……ありがとう。でも、私、今はもう、あの頃には戻れないから」
それが、彼とのやりとりの終わりだった。
杏果は軽く会釈をして、カウンターへと戻る。
◇◇
その日、最後のステージを終え、ベルベットコードは、演奏の余韻だけを残して静けさに包まれていた。
杏果はピアノの前に座り、鍵盤の蓋をゆっくりと閉じていた。
誰もいない店内に、自分の指が鳴らした音がまだ漂っている気がした。
「さっきの……知り合い?」
後ろから、飛弦の声がした。
杏果は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「うん。高校のとき、付き合ってた人。
でも、もう何年も会ってなかった。たまたま、ホームページで名前を見て……来たみたい」
飛弦は、カウンターの縁に腰をかけ、何も言わずに杏果の横顔を見ていた。
「……そっか」
その一言に、杏果は目を伏せた。
「もう、なんとも思ってない。話してみて、はっきりわかったの」
杏果の演奏が、ホームページで定期スケジュールに掲載されるようになってから、
少しずつだが「彼女の音を聴きに来た」という客が増えてきていた。
いつものように、控えめなステージ。
杏果はフォーレの《夢のあとに》を弾いていた。
まるで、遠くに流れていった感情の残響をすくい上げるようなその旋律。
鍵盤に向かう杏果の横顔は、静かに光に照らされていた。
曲が終わり、拍手がやさしく広がる。
杏果が深くお辞儀をし、ステージを降りようとした、そのときだった。
カウンターの端。
そこに座る、見覚えのある姿に気づいた。
黒いジャケットに、整えられた髪。
大学進学とともに上京し、やがて自然と疎遠になった、——元カレだった。
杏果の足が、一瞬だけ止まる。
けれどすぐに呼吸を整え、ゆっくりと客席を通り過ぎた。
彼のほうから、声がかかったのは、演奏後、飲み物を受け取りに来たときだった。
「……やっぱり、杏果だったんだな」
杏果は驚いたように振り向き、少しだけ笑った。
「久しぶり。……元気だった?」
「うん、まあ。……たまたまサイトで名前見つけてさ。来てみた」
言葉は穏やかだったけれど、どこか過去形のぬるさがあった。
杏果はそれに、懐かしさではなく、遠さを感じていた。
「昔と変わらないな、って思ったよ。……でも、前より優しくなったかもしれない」
「そう? ……今は、自分のために弾いてるから、かもね」
言葉に出して、自分でも少し驚いた。
あの頃は、“評価されるため”に、“結果を出すため”に弾いていた。
でも今は違う。音を、誰かと共有するために弾いている。
元カレは、グラスの縁を指でなぞりながら、少し視線をそらす。
「……なんか、ちょっと綺麗になったよな」
杏果は、その言葉に、笑いも返さずただ首をかしげた。
「……ありがとう。でも、私、今はもう、あの頃には戻れないから」
それが、彼とのやりとりの終わりだった。
杏果は軽く会釈をして、カウンターへと戻る。
◇◇
その日、最後のステージを終え、ベルベットコードは、演奏の余韻だけを残して静けさに包まれていた。
杏果はピアノの前に座り、鍵盤の蓋をゆっくりと閉じていた。
誰もいない店内に、自分の指が鳴らした音がまだ漂っている気がした。
「さっきの……知り合い?」
後ろから、飛弦の声がした。
杏果は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「うん。高校のとき、付き合ってた人。
でも、もう何年も会ってなかった。たまたま、ホームページで名前を見て……来たみたい」
飛弦は、カウンターの縁に腰をかけ、何も言わずに杏果の横顔を見ていた。
「……そっか」
その一言に、杏果は目を伏せた。
「もう、なんとも思ってない。話してみて、はっきりわかったの」