ベルベットの夜 ― 夢を諦めた喫茶店スタッフ、ピアノバーの彼と出会い再び鍵盤の前へ

第十八話 「連弾」

 夕方の駅前広場は、いつもより静かだった。
 杏果は「キャリコ」を出て、改札へ向かう歩道橋をゆっくり歩いていた。

 改札前のコンコースに置かれたストリートピアノ。
 何人かが近くを通り過ぎていくが、誰もピアノに触れてはいない。

 ふと、杏果は立ち止まり、ピアノを見つめた。

 ——今日は、誰も弾いてない。

 風が頬をなでる。
 杏果は、気づけばピアノの前に腰を下ろしていた。

 鍵盤に、そっと指を置く。
 今日は、譜面は持っていない。でも、手が覚えている。

 リスト《愛の夢》第3番。
 かつて、震える手で弾いたあの旋律が、今、駅構内に響く。

 ひとつ、ひとつ、音を置くように。
 人の話し声、子どもの笑い声、駅のアナウンス、それらの音がどこか遠くなるように感じた。
 
 最後の和音を響かせたとき、後ろから拍手が聞こえた。

 振り返ると、アッシュグレーの髪が風に揺れていた。
 飛弦だった。
 少し離れた場所に立ち、コートのポケットに手を突っ込んだまま、微笑んでいた。

「聴いてたの?」

「うん。たまたま通ったら……ちょうど始まったから」

 杏果は、恥ずかしそうにうつむいた。

「あなたも、弾く?」

「ううん。……ねえ、連弾してみない?」

 杏果は目を丸くした。

「……ここで?」

「ねえ、《イパネマの娘》、知ってる?」

 杏果は一瞬考え、頷いた。

「知ってる。……ボサノヴァ、だよね」

「そう。
  やってみる? 連弾。君が旋律、俺がコードで入る」

「ここで?」

「ここだからいいんじゃない? それに……動画、撮ってもいい?」
 
 杏果はちょっとだけ躊躇したが、すぐに微笑んだ。

「うん。……やってみようか」

 飛弦がスマートフォンをスタンドに立て、録画モードにする。
 杏果はベンチに腰かけ直し、隣に飛弦が座ると、少しだけ肩が触れた。

 杏果の右手が、軽やかな旋律を運び出すと、飛弦のコードが柔らかく追いかけた。

 大きく揺れないボサノヴァのリズム。
 風のように流れる音に、いつの間にか何人かが足を止めていた。

 ふたりはアイコンタクトを交わし、途中でそっとパートを交代する。
 それもごく自然に——まるで音に導かれるように。
 
 最後のコードを重ねたとき、広場には拍手が静かに湧き上がった。

 杏果が顔を上げると、飛弦が手を差し出してきた。

「……いい音だった」

「うん。……すごく、気持ちよかった」
 
 杏果もそっと、右手を伸ばして、それを握った。

 その手は、少しだけ冷たかった。

   ◇◇

 落ち着いたカフェに入り、ふたりは窓際のカウンター席に並んで座った。
 ホットチョコレートとコーヒー。湯気の向こうに、ゆるやかな沈黙。

「……なんか、不思議だね。
  昔だったら、外でピアノ弾くなんて、考えられなかった」

「俺も。誰かと連弾するなんて、人生で初めてかも」

 ふたりは笑う。
 
 しばらく沈黙が続いたあと、杏果が小さく切り出した。

「……桜井さん、会社辞めたって、言ってたよね」

「うん。両親の期待もあって、いちおう就職はしたんだけどさ。
  飲み会とか、“空気読むのが大事”みたいな文化が合わなくて。
  ……自分らしくいられる時間の方が、大事だって思っちゃった」

「わかる気がする……。そういうの、苦手」

 飛弦は少し笑って、カップの縁に指をかけた。

「大学では軽音サークルでジャズバンドやってたんだ。
  ピアノ担当。ライブもいくつか出てて、けっこう楽しかった。
  でも卒業したら、みんな辞めちゃってさ。
  残ったのは俺だけだった」

 杏果は驚いたように目を見開いた。

「そうなんだ……。桜井さんの演奏、ずっと続けてる人の音だなって思ってた」

 彼は照れたように小さく肩をすくめた。

「君は?」

「私は……子どものころから、ずっとクラシックを習ってたの。
  短大もピアノ専攻。でも、家はそんなに余裕があるわけじゃなかったし……
  ピアノで食べていける自信もなかった」

 杏果は少しだけ息を吐き、カップに視線を落とした。

「就職も考えたけど、どこにもピンとこなくて。
  それで、今の喫茶店に……、そこでずっと働いてる。
  音楽から離れてたけど、あなたと会って、またピアノに触れるようになったの。
  ……感謝してる」

 飛弦は、驚いたように一瞬視線を動かしてから、ゆっくり言った。

「……それは、俺も嬉しいよ」

 杏果は、うなずいた。

「あのときの《愛の夢》、私の中の“ピアノ”を思い出させてくれた」

 沈黙。
 でも、そこには心地よい温度があった。

 飛弦は、少し間を置いてから、話を戻すように言った。

「動画配信でね、今はそこそこ稼げてる。
  でも、安定してるわけじゃないし……。
  ベルベットコードでは、週に3回、演奏させてもらってる」

「……ずっと?」

「うん。あの店がなかったら、俺もたぶん音楽、続けられてなかったと思う。
  仁美さんには、ほんとに感謝してる」

 杏果は、そっと頷いた。

「……私、今まで誰かとこんなふうに、ピアノのことを話す機会、なかったかもしれない」

「そう? ……なんか、意外」

 窓の外には、ゆっくりと夜が降りてきていた。
 ふたりはそれを見つめながら、言葉を探すように黙った。

 言葉がなくても、十分だった。
 窓の外の街並みを見ながら、並んで座る今の距離感が、ちょうどよかった。
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