冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
専務と少女、そして「パパ」の声
(あの子だ)
テニスコートのフェンス越しから「がんばれー!」と声をかけてくれていた女の子。その面影を残したまま、少しだけ背が伸び、髪が長くなって、あの頃の笑顔をどこかに残したまま――
今日、偶然この場所で再会できたことが、私には奇跡のようだった。
金網越しに目が合って、少女はふわりと笑ってくれた。あの頃のように、何か言葉を交わしたわけではないけれど、彼女の中にも“懐かしさ”が灯っているような気がして、胸がじんとした。
ただ、それだけで十分だった。
静かに心を癒してくれる存在が、今もこうしてどこかで生きていて、成長していて、また同じ場所に立っている。それを知れただけで、私の過去がやさしく肯定されたような気がした。
そのまま立ち去るつもりだった。余韻に浸りながら、今日はもう帰ろう――そう思って、そっと背を向けかけたそのとき。
「――心春、待たせたな」
低く、聞き慣れた声が耳に届いた。
思わず足が止まる。
その声。
振り返ると、そこに立っていたのは――一ノ瀬専務だった。
スーツ姿ではなかった。ダークグレーのパーカーに、黒のスラックス。休日らしいラフな服装。いつもより柔らかい印象で、少しだけ髪も乱れていて――けれど、間違いなく彼だった。そして、少女に向かって、自然に手を差し出した。
その小さな手が、彼の大きな手に繋がれた瞬間――
「パパ!」
少女の、澄んだ声が響いた。
それはあまりにも、はっきりとした呼び方だった。
鼓動が止まる。
世界が、音を失ったように感じた。
(……パパ?)
私の思考が一瞬でフリーズする。目の前で、少女が笑いながら「パパ!」と呼んだ。小さな身体で駆け寄り、その手をしっかりと握っている。彼も自然な仕草で、その手を包み込んだ。
(え……)
足元から、冷たい何かがせり上がってくる。呼吸がうまくできない。息を吸ったはずなのに、肺まで届かず、胸の奥がきゅっと苦しくなる。
(専務……結婚してたの?)
驚きと混乱と、信じたくないという感情がいっぺんに押し寄せてきて、私はその場に立ち尽くした。
だって、聞いたことがなかった。社内では「独身」とされていたし、既婚者だなんて、噂どころか話題にすらなったことがない。もちろん、彼の私生活を詮索したことはなかったけれど、もし結婚していて、子どもまでいたなら、誰かが一度くらい口にしていてもおかしくなかった。
それなのに。
今、目の前で――確かに“パパ”と呼ばれている。
しかも、彼は否定するどころか、当たり前のようにその手を繋いで歩き出した。
私は金網の陰に身を潜めるように立ち尽くしたまま、動けなかった。
コートの外側の小道を、彼と少女が並んで歩いていく。休日の、何でもない親子の光景。少女はにこにこと楽しそうに話しかけていて、彼はそれに時折頷きながら、静かに耳を傾けていた。
風に乗って、ふたりの笑い声が微かに届く。
少女の声も、彼の低く抑えた笑いも、すべてがあまりに自然で――そこには“家族”の空気が、確かにあった。
胸の奥が、痛かった。
ひどく、痛かった。
(私……何してるんだろう)
私の中で、何かが崩れていった。
彼の言葉に嬉しくなって、視線が合うだけでドキッとして。資料を褒められたことで、もしかして少しは認められたかもしれないなんて、期待して。
そんなふうに思っていた自分が、滑稽でたまらなくなる。
(私……あの人のこと、好きになってたんだ)
ずっと認めたくなかった。気のせいだと思っていた。上司として尊敬しているだけだと、仕事を頑張るための“目標”みたいなものだと、言い聞かせていた。
でも。
こんなにも胸が痛くなるのは、ただの憧れじゃない。
私は――本当に、彼のことを想ってしまっていたのだ。
けれど。
彼には家庭がある。小さな女の子がいて、「パパ」と慕っている。そして、彼はそれを、何も隠さず、当たり前のように受け止めていた。
それがすべて。
私の入る余地なんて、最初からどこにもなかった。
風が吹いて、冷たい空気が頬をなでた。
頬にあたった風の温度で、私はようやく我に返った。
(見られなくて、よかった……)
彼が私に気づかなくてよかった。こんな姿、見られたくなかった。
私はそっと背を向け、来た道を戻る。
足元がふらついて、少しだけ躓きそうになった。でも、転ぶわけにはいかなかった。泣き顔なんて、誰にも見せたくない。誰もいない歩道を、私はただ黙って歩いた。
目の奥が熱い。でも、涙は流れなかった。
泣いてしまったら、すべてを認めることになる気がして、どうしてもそれだけは許せなかった。
だけど、心の中で、何かがそっと崩れていた。
彼を見つめていた気持ち。努力を認めてもらえた喜び。期待。ときめき。
それらが、ひとつずつ、胸の奥でそっと形を失っていった。
(でも……)
それでも私は、仕事を続けなきゃいけない。
彼の秘書として、まだ未熟でも、必要とされる存在になれるように。
自分の気持ちを封じ込めて、きちんと距離を保って、また月曜には会社に行く。
何事もなかったように。
何も知らなかったふりをして。
そう、自分に言い聞かせながら、私は駅へと向かった。
もう、振り返らなかった。
テニスコートのフェンス越しから「がんばれー!」と声をかけてくれていた女の子。その面影を残したまま、少しだけ背が伸び、髪が長くなって、あの頃の笑顔をどこかに残したまま――
今日、偶然この場所で再会できたことが、私には奇跡のようだった。
金網越しに目が合って、少女はふわりと笑ってくれた。あの頃のように、何か言葉を交わしたわけではないけれど、彼女の中にも“懐かしさ”が灯っているような気がして、胸がじんとした。
ただ、それだけで十分だった。
静かに心を癒してくれる存在が、今もこうしてどこかで生きていて、成長していて、また同じ場所に立っている。それを知れただけで、私の過去がやさしく肯定されたような気がした。
そのまま立ち去るつもりだった。余韻に浸りながら、今日はもう帰ろう――そう思って、そっと背を向けかけたそのとき。
「――心春、待たせたな」
低く、聞き慣れた声が耳に届いた。
思わず足が止まる。
その声。
振り返ると、そこに立っていたのは――一ノ瀬専務だった。
スーツ姿ではなかった。ダークグレーのパーカーに、黒のスラックス。休日らしいラフな服装。いつもより柔らかい印象で、少しだけ髪も乱れていて――けれど、間違いなく彼だった。そして、少女に向かって、自然に手を差し出した。
その小さな手が、彼の大きな手に繋がれた瞬間――
「パパ!」
少女の、澄んだ声が響いた。
それはあまりにも、はっきりとした呼び方だった。
鼓動が止まる。
世界が、音を失ったように感じた。
(……パパ?)
私の思考が一瞬でフリーズする。目の前で、少女が笑いながら「パパ!」と呼んだ。小さな身体で駆け寄り、その手をしっかりと握っている。彼も自然な仕草で、その手を包み込んだ。
(え……)
足元から、冷たい何かがせり上がってくる。呼吸がうまくできない。息を吸ったはずなのに、肺まで届かず、胸の奥がきゅっと苦しくなる。
(専務……結婚してたの?)
驚きと混乱と、信じたくないという感情がいっぺんに押し寄せてきて、私はその場に立ち尽くした。
だって、聞いたことがなかった。社内では「独身」とされていたし、既婚者だなんて、噂どころか話題にすらなったことがない。もちろん、彼の私生活を詮索したことはなかったけれど、もし結婚していて、子どもまでいたなら、誰かが一度くらい口にしていてもおかしくなかった。
それなのに。
今、目の前で――確かに“パパ”と呼ばれている。
しかも、彼は否定するどころか、当たり前のようにその手を繋いで歩き出した。
私は金網の陰に身を潜めるように立ち尽くしたまま、動けなかった。
コートの外側の小道を、彼と少女が並んで歩いていく。休日の、何でもない親子の光景。少女はにこにこと楽しそうに話しかけていて、彼はそれに時折頷きながら、静かに耳を傾けていた。
風に乗って、ふたりの笑い声が微かに届く。
少女の声も、彼の低く抑えた笑いも、すべてがあまりに自然で――そこには“家族”の空気が、確かにあった。
胸の奥が、痛かった。
ひどく、痛かった。
(私……何してるんだろう)
私の中で、何かが崩れていった。
彼の言葉に嬉しくなって、視線が合うだけでドキッとして。資料を褒められたことで、もしかして少しは認められたかもしれないなんて、期待して。
そんなふうに思っていた自分が、滑稽でたまらなくなる。
(私……あの人のこと、好きになってたんだ)
ずっと認めたくなかった。気のせいだと思っていた。上司として尊敬しているだけだと、仕事を頑張るための“目標”みたいなものだと、言い聞かせていた。
でも。
こんなにも胸が痛くなるのは、ただの憧れじゃない。
私は――本当に、彼のことを想ってしまっていたのだ。
けれど。
彼には家庭がある。小さな女の子がいて、「パパ」と慕っている。そして、彼はそれを、何も隠さず、当たり前のように受け止めていた。
それがすべて。
私の入る余地なんて、最初からどこにもなかった。
風が吹いて、冷たい空気が頬をなでた。
頬にあたった風の温度で、私はようやく我に返った。
(見られなくて、よかった……)
彼が私に気づかなくてよかった。こんな姿、見られたくなかった。
私はそっと背を向け、来た道を戻る。
足元がふらついて、少しだけ躓きそうになった。でも、転ぶわけにはいかなかった。泣き顔なんて、誰にも見せたくない。誰もいない歩道を、私はただ黙って歩いた。
目の奥が熱い。でも、涙は流れなかった。
泣いてしまったら、すべてを認めることになる気がして、どうしてもそれだけは許せなかった。
だけど、心の中で、何かがそっと崩れていた。
彼を見つめていた気持ち。努力を認めてもらえた喜び。期待。ときめき。
それらが、ひとつずつ、胸の奥でそっと形を失っていった。
(でも……)
それでも私は、仕事を続けなきゃいけない。
彼の秘書として、まだ未熟でも、必要とされる存在になれるように。
自分の気持ちを封じ込めて、きちんと距離を保って、また月曜には会社に行く。
何事もなかったように。
何も知らなかったふりをして。
そう、自分に言い聞かせながら、私は駅へと向かった。
もう、振り返らなかった。