冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

金網の向こうに、見覚えのある少女

少しだけ肌寒い風が吹き抜ける休日の午後。コートの裾がふわりと揺れる。私は大学時代に通い慣れた街を、ゆっくりと歩いていた。

ここに来るのは、ほんの数日前に続いて二度目だった。

駅を降りてから続く商店街の看板、古びた喫茶店の木製の扉、通りすがりの焼き芋屋の甘い匂い――変わっていない風景と匂いに、胸が少しだけ温かくなる。

何度もこの道を通った。就活の帰り、部活の前、卒論に行き詰まった夜。友達と笑いながら歩いたことも、ひとりで泣きそうになりながら帰った日もあった。

(でも、今日は……)

目的が、違っていた。

自分でもよく分からないまま、私はまた大学の敷地を囲む歩道へと足を向けていた。自然と、吸い寄せられるように。心のどこかが、またあの場所へ行きたいと、静かに願っていた。

そして。

大学の裏手、あのフェンスの向こう――テニスコートが見えた。

硬式用の赤茶けたコート。白線がまっすぐに引かれ、よく整備されている。誰かが練習しているのか、遠くから打球音が聞こえてくる。パーン、パーンと、乾いた音が風に乗って届いてくるたびに、胸の奥がじんわりと懐かしさに染まっていく。

そのときだった。

何気なく視線をフェンスの向こうへやると、見えたのだ。

小さな女の子が、フェンスの外側――かつてあの子がいた場所、保育園側のベンチのそばに、ちょこんと立っていた。

(え……?)

心臓が一瞬止まったように感じた。

ポニーテールに結んだ栗色の髪。明るい色のジャンパーと、白いニット帽。まだ幼さを残す小学生くらいの女の子。その子は背筋を伸ばし、コートのほうをじっと見つめていた。

小さな身体。けれど、どこか凛とした雰囲気があった。

私は思わずフェンスへと近づいた。音を立てないように、ゆっくりと。

鼓動が高鳴る。まるで、過去と現在が重なろうとしている瞬間を、肌が先に察知しているようだった。

(まさか……そんなこと、あるわけないよね)

自分に言い聞かせながらも、視線を逸らすことができなかった。

少女は、真剣な目でコートを見ていた。風が吹くたびに前髪が揺れて、その下に覗く瞳が、どこか見覚えのある形をしていた。

ふいに、彼女の口元が小さく動いた。

「……がんばれー……」

その言葉が、風にかすれて届いたとき、私は確信した。

(……あの子、だ)

大学生だった時の私を、金網の外から応援してくれた保育園の女の子。コートの端から端まで全力で手を振ってくれた子。声を張り上げ、笑って、時にはこっそりベンチから覗き込んでくれていた、あの存在。

私の記憶の中にしかいなかったはずの“癒しの声”が、いま目の前に――

少女はふと、こちらに気づいたように顔を向けた。

その瞬間、時が止まったように思えた。

ぱちりと大きく瞬く瞳。目が合った。あの頃よりはずっと成長していて、顔立ちも大人びていたけれど、目の奥にある純粋さは、あのときとまったく同じだった。

私は立ち尽くしていた。言葉が出ない。だけど、胸が熱くなっていた。

少女の表情は、少しだけ驚いたようだった。でも、不思議と怯えた様子はなかった。逆に、どこか懐かしいものを見るような、そんな目をしていた。

お互いに言葉を発さないまま、数秒だけ、視線が絡まった。

私が微笑むと、少女も小さく――ほんの少しだけ、唇を緩めた。

その笑顔を見た瞬間、心の中で何かが解けた。

あの子は、やっぱり、あの頃の“あの子”だ。

名前も知らない。年齢も知らない。でも、私は知っている。この子の声に、私は何度も救われた。きっと本人はもう覚えていないかもしれない。でも、私にとっては忘れられない存在だった。

「……また、ここに来てたんだね」

私は小さな声でそう呟いた。少女には聞こえなかったかもしれない。それでも、胸の奥にあたたかい何かが広がっていく。

過去の記憶が、目の前の現実と重なった瞬間。

偶然か、必然か――その意味はまだわからなかった。

でも、こうして再び“金網越し”に出会えたことが、私にとって何よりの奇跡だった。

この先のことはまだ何も知らない。この子とまた会話ができるのか、二度と会えないのか、それもわからない。

それでも。

私は心の中で、そっとあの頃の自分に語りかけた。

(ねえ、見てる? あの子が、今もここにいるよ)

(あなたがあのとき感じた“誰かに見てもらえている”って気持ちは、間違っていなかったんだよ)

(ずっと、つながってたんだ)

静かに吹いた風が、少女の髪を揺らす。
その風が、私の襟の端を持ち上げ、春の匂いを運んできた。

そして私は、もう一度だけ彼女に微笑みかけた。

言葉にしなくても、伝えたい思いは、確かに胸に宿っていた。
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