冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

素の専務に惹かれ始める

オフィスビルの7階。応接室の前に立った私は、手元の資料に視線を落としながらも、ガラス扉越しに聞こえてくる声に思わず足を止めた。

「子ども向けっていうのは、手を抜いていい対象じゃない。むしろ、真剣に作らなきゃ意味がないんだよ」

それは、よく知っている声――一ノ瀬専務の声だった。

でも、その口調はいつもとは違っていた。
冷静で、理路整然とした会議のトーンでもなければ、部下への厳しい指示でもない。

それはどこか、情熱を帯びた“誰かの未来を思う声”だった。

「子どもって、“面白いかどうか”にものすごく正直だからさ。どんなに立派な目的でも、本人が『楽しい』って思えなきゃ届かない」

一ノ瀬専務の口から“楽しい”という言葉が出ることに、私は軽く息を呑んだ。

それだけで、彼の印象が、私の中で少しずつ変わっていくのがわかった。

資料の提出のために、応接室に入ったとき、彼はいつもより穏やかな目をしていた。

深いグレーのスーツ、シャープな横顔。
そのすべてが“隙のない上司”という印象だったのに――今日は違った。

目元の緊張が少し解けていて、声にも柔らかい抑揚があった。

そして、ふと私に向けて言った。

「この資料、わかりやすくて助かる。ありがとう」

静かに、でも確かに“感謝”がこもっていた。

私は思わず顔を上げて、彼の視線とぶつかった。
その目は、冷たくも厳しくもなかった。

(……あたたかい)

思わず胸が苦しくなるほど、柔らかかった。

(どうして……こんな一面を)

私は知らなかった。
いや、知ろうとしてこなかったのかもしれない。

彼がどんな思いで働いているのか。
どんなことに心を動かされるのか。
何を守りたくて、何を大事にしているのか――

そんな“人間らしさ”を、ずっと遮断していた。

「失礼します」と頭を下げて応接室を出た後も、胸の奥に残った彼の声の余韻が、いつまでも消えなかった。

(私、知らなかった)

午後のデスクワークに戻っても、心のどこかが落ち着かなかった。

彼が子ども向けのCSR企画にここまで関わっていたことも、
それに本気で情熱を注いでいたことも――

今朝まで、何も知らなかった。

私はただ、“冷たい上司”という印象だけを頼りに、彼のすべてを決めつけていた。

(でも……違った)

あの瞬間、笑った彼の顔。

仕事で見せる“完璧な人”の仮面じゃない。
誰かの未来を考える人間としての“素の顔”。

(そんな顔を……見せられてしまったら)

もう、目を逸らすことなんてできない。

夕方、コピーを取りに行った帰り。
給湯室の前で、偶然彼とすれ違った。

「……ああ、高梨さん」

その声に反応して顔を上げると、専務は珍しく“微笑んでいた”。

ごくわずかに、唇の端が上がるだけの、小さな微笑み。

でも、それはまぎれもなく――“誰かに見せるためのもの”ではなく、“自然に滲んだもの”だった。

「あ、あの……お疲れさまです」

思わずしどろもどろになる私に、彼は「うん」と短く答え、そのまま廊下を歩いていった。

足音が遠ざかっていく間も、私はその場から動けなかった。

(あの人……笑った)

ほんの少しだけだった。
一瞬の、ささやかな変化。

でも、私の心はそれだけで、どうしようもなく揺さぶられた。

(……冷たいだけの人じゃなかったんだ)

そう思った途端、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

夜、帰りの電車。

手元のスマートフォンの画面には、社内イントラネットで告知されていた「キッズラーニングプロジェクト」の案内が表示されていた。

“未来の社会を担う子どもたちへ、わかりやすく、たのしく、企業の役割を伝えるための企画です。”

その言葉の向こうに、一ノ瀬専務の姿が重なった。

(この人は、ただのエリートなんかじゃない)

そう確信できるほどの情熱と、誰かを思う真摯さを、私は今日、確かに見てしまった。

その瞬間から――

(好きになってしまうの、当たり前だよ)

ふと、そう思った。

こんな人を好きにならないほうが、むしろ難しい。

だから、私は。

(でも、ダメだよ)

心の中で、もう一人の自分が叫ぶ。

(この人には、家庭がある。あの子がいる)

あの休日、手をつないで歩いていたあの女の子。
フェンス越しに「パパ」と呼んだ、あの声。

あの子の存在が、私の理性を縛る。

(好きになってはいけない)

どんなに惹かれても、どんなに心が動いても――
それは、してはいけない恋なのだと。

ベッドに横になった夜。

暗い天井を見上げながら、私は枕元に置いたスマホの光をそっと消した。

部屋は、静かだった。

ただ、胸の奥だけが、まだざわめいていた。

今日、私は確かに見てしまった。

彼の素顔。
誰かを思う目。
守りたいと願う心。

その全部に、私は惹かれてしまった。

それを、知らなければよかったなんて思わない。

でも――

(この想いを、どうやってしまっておけばいいの?)

そう呟いた私の声は、闇の中に吸い込まれていった。
< 21 / 49 >

この作品をシェア

pagetop