冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
秘書としてやってきた彼女
「本日より、専務付の秘書として配属されました、高梨澪です。よろしくお願いいたします」
まっすぐに頭を下げた彼女の声は、わずかに震えていた。
面接では一度見かけていたが、こうして正式な配属として対面するのは初めてだった。
(……緊張しているのか)
その様子から、第一印象はひとことで言えば“頼りなさそう”。
背筋こそ伸びてはいるが、肩は硬く、視線は定まらない。
細身の体に、スーツがまだ馴染んでいない。
内勤の女性たちと比べれば、いかにも“大学を出たて”という雰囲気が滲み出ていた。
「秘書としてはまだまだ未熟者ですが、誠心誠意、努力してまいりますので……」
その言葉に、俺はごく簡単に頷いた。
「よろしく」
それ以上、何も言わなかった。
(正直、すぐ辞めるかもしれないな)
そんな予感すら、少しあった。
うちの秘書課は、表面上こそ穏やかだが、裏では女性同士の力関係や無言の牽制が飛び交う“見えない戦場”だ。
俺自身の立場の問題もあってか、配属されるたびに勘違いをされて辞めていく者も少なくなかった。
だから、淡々と接することに決めていた。
だが――数日後、提出された履歴書をふと開いたとき。
その名前と、記載されていた“ある情報”に目が留まった。
『〇〇女子大学 経済学部 経営学科卒/硬式テニス部所属』
(……テニス)
その単語に、胸の奥が不意にざわめいた。
脳裏に浮かんだのは、心春の幼い声。
『パパ、きょうもね、テニスのおねえちゃんがいたよ』
『がんばれー!っていったら、わらってくれたの!』
何度も聞かされた、小さな自慢話のような記憶。
それは、心春が保育園に通っていた頃、大学のすぐそばのテニスコートにいた“女子大生”の話だった。
彼女が練習するそのコートを、心春は保育園の塀越しに眺めていたのだという。
(まさか……)
手元の履歴書をじっと見つめる。
同じ大学、しかもテニス部。
その瞬間、思い出した。
あの頃、心春を迎えに行ったとき、遠くから見た金網越しの風景。
コートの向こう側。
笑いながら声をかけていた女子学生。
心春が無邪気に手を振っていた、その相手。
その笑顔が――
今、目の前にいる彼女と、重なった。
――たぶん、あれは2年前の春だったと思う。
大学の裏手にある保育園へ、心春を迎えに行った帰り道。
時間に余裕のある日だったから、車は使わず、歩いて園まで向かった。
その保育園の敷地の隣には、大学のテニスコートがある。
季節の良い午後、練習に打ち込む学生たちの声がコートから響いていた。
フェンスの向こう――
そこに、ひとりの女子大生がいた。
白いキャップに、グレーのジャージ。
ポニーテールを揺らしながら、楽しそうにボールを追いかけていた。
そして、金網越しに、心春が笑いかけていた。
「がんばれー!」
まだ小さな声。
保育園の制服のまま、金網に小さな手をかけて、ぴょこぴょこと跳ねながら。
「ありがとうー!」
そう答えたのは、その女子学生だった。
彼女は、心春の声に笑い返し、ボールを拾いに行く合間に近づいて話しかけていた。
「今日も来てくれたの?見ててくれると、頑張れるんだ」
そんなやり取りが、金網越しに繰り返されていた。
俺は、少し離れた位置から、その光景を見つめていた。
邪魔をしないように、ただ静かに――
(……楽しそうだな)
自然と、そんな言葉が浮かんだ。
何を話しているのか、内容までは聞こえなかった。
でも、心春が心から笑っていること。
それに応じて、彼女も笑っていたこと。
それが、なんだか、妙に心に残った。
俺自身、あの頃はまだ“心春をどう扱えばいいのか”を手探りしていた時期だった。
泣いて、笑って、でも時折寂しそうな目をする心春に、どう接すればいいのか分からなかった。
けれど――あのとき、金網越しに笑っていた彼女の声に、心春は確かに救われていた。
(……そうか)
そして今、俺の目の前にいるのは――その女子大生だった。
高梨澪。
「……高梨さん」
「はいっ!」
少し強く呼びかけたせいか、彼女は慌てて振り返った。
まだ声の調子に戸惑いがあるようで、返事にも硬さが残る。
けれど、彼女の目は、真っ直ぐだった。
(あのときの“お姉ちゃん”が、君だったのか)
口には出さなかった。
出せなかった。
そんなことを急に言われても、きっと気味が悪いだけだ。
それに、あれは“心春の思い出”だ。
簡単に他人と共有できるものじゃない。
だから、俺はそのまま何も言わず、書類に目を戻した。
けれど――彼女の声を聞くたびに、心春の笑顔が蘇るようになった。
(あの頃、君の声に、あの子は笑っていた)
それが、なぜか、今の俺にとっても“救い”のように思えた。
初めはすぐに辞めてしまうかと思っていた彼女は、予想に反して、少しずつ仕事に慣れていった。
不器用ではあるが、真面目で、ひたむきで。
叱られてもめげず、メモを取り続け、遅くまで残って仕事を覚えようと努力する姿勢は――どこか、かつての自分を思い出させるほどだった。
ふと見ると、彼女が使っている手帳の端にびっしりと書き込まれたメモ。
おそらく、誰にも見せるつもりのない、自分だけの“改善ノート”。
そんなところに目が留まってしまう自分がいた。
そして、気づけば、心春の笑顔と彼女の笑顔が少しずつ重なるようになっていた。
ある日の昼休み、ふとした瞬間に彼女が笑った。
給湯室で、ポットの交換に手こずっていた同僚を助けたあと、彼女は小さく息を吐いて笑ったのだ。
「ああ、これ、たまに引っかかるんですよね」
それは業務とは関係のない、ささやかな日常の一幕。
でも――その笑い方が、あの時と同じだった。
金網越しに、心春と向き合っていたあの表情。
目元が少しだけ下がって、口元がきゅっと丸くなる、あの笑い方。
(やっぱり、君だったんだな)
確信が、胸の奥にゆっくりと沈んでいった。
だが――そのことを彼女に伝えることはなかった。
いや、伝えられなかった。
(こんなこと言ったら、気持ち悪いと思われるだけだ)
「昔、金網越しに君と心春を見ていた」
「その笑顔に癒された」
「君のこと、覚えていた」
そんな話を、どんな顔で言えばいいのか分からない。
仮に俺が上司ではなく、ただの同僚だったとしても。
それはあまりにも個人的すぎる記憶で――
“偶然”が生んだ、奇跡のような接点は、まだ言葉にしてはいけないと思った。
彼女に余計な気を遣わせたくない。
変な意識を植えつけたくもない。
俺は上司であり、彼女は部下。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
だから、俺は黙っていた。
何も知らないふりをして、日々の仕事を共にしていた。
でも、心の奥では、確かに“知っている”という実感があった。
(あの頃の君と、今の君は――変わらない)
人の話を丁寧に聞くこと。
小さなことにも気づいて、手を貸そうとすること。
自分より他人の気持ちを優先してしまうところ。
それらすべてが、あの頃と同じだった。
変わったのは、君がスーツを着ていることくらい。
(……本当に、不思議だ)
なぜ、こんな再会をしたのか。
なぜ今、再び“同じ場所”にいるのか。
答えは出なかった。
でもその日から、彼女の笑顔を見るたびに、俺の中の記憶が少しずつ息を吹き返していくのを感じていた。
(もしも――過去を話す日が来るとしたら)
それは、彼女が俺を“過去の誰か”としてではなく、“今の俺”として見てくれるとき。
そう思っていた。
だから今は、ただ見守るだけでいい。
金網越しに見ていた、あの笑顔を――今は、すぐ隣で見られるから。
(君が、あの“テニスのお姉ちゃん”だったなんて)
(……偶然にしては、できすぎている)
でも、それでも。
この事実を、まだ彼女には伝えるつもりはない。
“過去の笑顔”が、今ここでまた俺の前に現れたこと。
その奇跡を――もう少し、ひとりで噛み締めていたかった。
まっすぐに頭を下げた彼女の声は、わずかに震えていた。
面接では一度見かけていたが、こうして正式な配属として対面するのは初めてだった。
(……緊張しているのか)
その様子から、第一印象はひとことで言えば“頼りなさそう”。
背筋こそ伸びてはいるが、肩は硬く、視線は定まらない。
細身の体に、スーツがまだ馴染んでいない。
内勤の女性たちと比べれば、いかにも“大学を出たて”という雰囲気が滲み出ていた。
「秘書としてはまだまだ未熟者ですが、誠心誠意、努力してまいりますので……」
その言葉に、俺はごく簡単に頷いた。
「よろしく」
それ以上、何も言わなかった。
(正直、すぐ辞めるかもしれないな)
そんな予感すら、少しあった。
うちの秘書課は、表面上こそ穏やかだが、裏では女性同士の力関係や無言の牽制が飛び交う“見えない戦場”だ。
俺自身の立場の問題もあってか、配属されるたびに勘違いをされて辞めていく者も少なくなかった。
だから、淡々と接することに決めていた。
だが――数日後、提出された履歴書をふと開いたとき。
その名前と、記載されていた“ある情報”に目が留まった。
『〇〇女子大学 経済学部 経営学科卒/硬式テニス部所属』
(……テニス)
その単語に、胸の奥が不意にざわめいた。
脳裏に浮かんだのは、心春の幼い声。
『パパ、きょうもね、テニスのおねえちゃんがいたよ』
『がんばれー!っていったら、わらってくれたの!』
何度も聞かされた、小さな自慢話のような記憶。
それは、心春が保育園に通っていた頃、大学のすぐそばのテニスコートにいた“女子大生”の話だった。
彼女が練習するそのコートを、心春は保育園の塀越しに眺めていたのだという。
(まさか……)
手元の履歴書をじっと見つめる。
同じ大学、しかもテニス部。
その瞬間、思い出した。
あの頃、心春を迎えに行ったとき、遠くから見た金網越しの風景。
コートの向こう側。
笑いながら声をかけていた女子学生。
心春が無邪気に手を振っていた、その相手。
その笑顔が――
今、目の前にいる彼女と、重なった。
――たぶん、あれは2年前の春だったと思う。
大学の裏手にある保育園へ、心春を迎えに行った帰り道。
時間に余裕のある日だったから、車は使わず、歩いて園まで向かった。
その保育園の敷地の隣には、大学のテニスコートがある。
季節の良い午後、練習に打ち込む学生たちの声がコートから響いていた。
フェンスの向こう――
そこに、ひとりの女子大生がいた。
白いキャップに、グレーのジャージ。
ポニーテールを揺らしながら、楽しそうにボールを追いかけていた。
そして、金網越しに、心春が笑いかけていた。
「がんばれー!」
まだ小さな声。
保育園の制服のまま、金網に小さな手をかけて、ぴょこぴょこと跳ねながら。
「ありがとうー!」
そう答えたのは、その女子学生だった。
彼女は、心春の声に笑い返し、ボールを拾いに行く合間に近づいて話しかけていた。
「今日も来てくれたの?見ててくれると、頑張れるんだ」
そんなやり取りが、金網越しに繰り返されていた。
俺は、少し離れた位置から、その光景を見つめていた。
邪魔をしないように、ただ静かに――
(……楽しそうだな)
自然と、そんな言葉が浮かんだ。
何を話しているのか、内容までは聞こえなかった。
でも、心春が心から笑っていること。
それに応じて、彼女も笑っていたこと。
それが、なんだか、妙に心に残った。
俺自身、あの頃はまだ“心春をどう扱えばいいのか”を手探りしていた時期だった。
泣いて、笑って、でも時折寂しそうな目をする心春に、どう接すればいいのか分からなかった。
けれど――あのとき、金網越しに笑っていた彼女の声に、心春は確かに救われていた。
(……そうか)
そして今、俺の目の前にいるのは――その女子大生だった。
高梨澪。
「……高梨さん」
「はいっ!」
少し強く呼びかけたせいか、彼女は慌てて振り返った。
まだ声の調子に戸惑いがあるようで、返事にも硬さが残る。
けれど、彼女の目は、真っ直ぐだった。
(あのときの“お姉ちゃん”が、君だったのか)
口には出さなかった。
出せなかった。
そんなことを急に言われても、きっと気味が悪いだけだ。
それに、あれは“心春の思い出”だ。
簡単に他人と共有できるものじゃない。
だから、俺はそのまま何も言わず、書類に目を戻した。
けれど――彼女の声を聞くたびに、心春の笑顔が蘇るようになった。
(あの頃、君の声に、あの子は笑っていた)
それが、なぜか、今の俺にとっても“救い”のように思えた。
初めはすぐに辞めてしまうかと思っていた彼女は、予想に反して、少しずつ仕事に慣れていった。
不器用ではあるが、真面目で、ひたむきで。
叱られてもめげず、メモを取り続け、遅くまで残って仕事を覚えようと努力する姿勢は――どこか、かつての自分を思い出させるほどだった。
ふと見ると、彼女が使っている手帳の端にびっしりと書き込まれたメモ。
おそらく、誰にも見せるつもりのない、自分だけの“改善ノート”。
そんなところに目が留まってしまう自分がいた。
そして、気づけば、心春の笑顔と彼女の笑顔が少しずつ重なるようになっていた。
ある日の昼休み、ふとした瞬間に彼女が笑った。
給湯室で、ポットの交換に手こずっていた同僚を助けたあと、彼女は小さく息を吐いて笑ったのだ。
「ああ、これ、たまに引っかかるんですよね」
それは業務とは関係のない、ささやかな日常の一幕。
でも――その笑い方が、あの時と同じだった。
金網越しに、心春と向き合っていたあの表情。
目元が少しだけ下がって、口元がきゅっと丸くなる、あの笑い方。
(やっぱり、君だったんだな)
確信が、胸の奥にゆっくりと沈んでいった。
だが――そのことを彼女に伝えることはなかった。
いや、伝えられなかった。
(こんなこと言ったら、気持ち悪いと思われるだけだ)
「昔、金網越しに君と心春を見ていた」
「その笑顔に癒された」
「君のこと、覚えていた」
そんな話を、どんな顔で言えばいいのか分からない。
仮に俺が上司ではなく、ただの同僚だったとしても。
それはあまりにも個人的すぎる記憶で――
“偶然”が生んだ、奇跡のような接点は、まだ言葉にしてはいけないと思った。
彼女に余計な気を遣わせたくない。
変な意識を植えつけたくもない。
俺は上司であり、彼女は部下。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
だから、俺は黙っていた。
何も知らないふりをして、日々の仕事を共にしていた。
でも、心の奥では、確かに“知っている”という実感があった。
(あの頃の君と、今の君は――変わらない)
人の話を丁寧に聞くこと。
小さなことにも気づいて、手を貸そうとすること。
自分より他人の気持ちを優先してしまうところ。
それらすべてが、あの頃と同じだった。
変わったのは、君がスーツを着ていることくらい。
(……本当に、不思議だ)
なぜ、こんな再会をしたのか。
なぜ今、再び“同じ場所”にいるのか。
答えは出なかった。
でもその日から、彼女の笑顔を見るたびに、俺の中の記憶が少しずつ息を吹き返していくのを感じていた。
(もしも――過去を話す日が来るとしたら)
それは、彼女が俺を“過去の誰か”としてではなく、“今の俺”として見てくれるとき。
そう思っていた。
だから今は、ただ見守るだけでいい。
金網越しに見ていた、あの笑顔を――今は、すぐ隣で見られるから。
(君が、あの“テニスのお姉ちゃん”だったなんて)
(……偶然にしては、できすぎている)
でも、それでも。
この事実を、まだ彼女には伝えるつもりはない。
“過去の笑顔”が、今ここでまた俺の前に現れたこと。
その奇跡を――もう少し、ひとりで噛み締めていたかった。