冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

彼女の頑張る姿に惹かれ始める

「……こちら、修正版のスケジュール表です。午前の会議内容に一部訂正が入っていたので、それに合わせて更新しました」

差し出された資料のファイルは、いつものように丁寧に揃えられていた。

高梨澪。
俺の直属の秘書になって、もうすぐ三ヶ月。

正直なところ、ここまで続くとは思っていなかった。

人当たりの良さや笑顔の柔らかさに騙されがちだが、社内の空気は決して甘くない。
直属の役員が俺――というだけでも、陰で色々言われる。
新人が配属されては消えていくのも、もはや恒例行事だった。

だから、最初から過剰な期待はしていなかった。

だが彼女は、いつも真剣だった。

報告書ひとつ、メールの語尾ひとつ、書類の順番ひとつ――
誰よりも時間をかけて、慎重に確認していた。

一見すれば、ただの“遅い新人”かもしれない。

けれどその奥にある“丁寧さ”や“真面目さ”は、誰の目にもすぐに触れるものじゃない。

俺が気づいたのは、たまたまだった。

その日、彼女が離席中に、彼女のデスクの上に届いた書類を確認する必要があった。

業務としての正当な理由だったし、彼女も承知の上だった。

机の端に積まれたクリアファイルの隙間から、小さなノートの角がはみ出していた。

(……?)

書類かと思って手に取ったそれは――びっしりと細かい文字で埋められた、メモ帳だった。

ページをめくった瞬間、俺は言葉を失った。

「メール文頭の宛名、役職+姓を忘れない」
「提出物の締切は1日前に終わらせておく」
「書類の角をそろえると専務の目が止まりやすい」

……そんな“細かすぎる”項目が、びっしりと並んでいた。

(……俺の言ったこと、全部……)

それはまるで、叱られた一つ一つを、自分なりにかみ砕き、解釈して、行動に落とし込もうとした痕跡だった。

誰かに見せるつもりのない、完全に自分だけの“改善ノート”。

雑な走り書き。
ところどころに滲んだインク。
力強く丸で囲まれた言葉。

どれもが、彼女の焦りや不安、そして“何とかしたい”という思いの証だった。

そっとメモを元の位置に戻したとき、胸の奥に小さな熱が灯った。

(……誰にも気づかれずに、こんな努力をしていたのか)

その日以降、俺は無意識に彼女を目で追うようになっていた。

コピー機の前で印刷物を何度も確認する姿。
昼休みにひとりで資料を見返している姿。
他の秘書が談笑する中で、静かに仕事を続ける後ろ姿。

(どうして、そこまでして……)

誰かに認められたいのか。
それとも――ただ、負けたくないだけなのか。

彼女の本当の気持ちは分からなかった。
でも、確かにひとつだけ感じた。

“逃げない子なんだ”と。

ある日、彼女がトイレから戻ってきたあと、目のふちが赤くなっていた。

すぐに気づかないふりをした。

理由を聞いたところで、彼女は何も言わないだろう。

ただ――

その瞳の奥に宿った水面のような揺らぎを、俺は見逃さなかった。

叱られて、傷ついて、それでも戻ってきて。

何事もなかったように笑おうとして、それでも少しだけ、声が揺れている。

そんな彼女の姿を見て、胸の奥にあるものがかすかに揺れた。

(……守ってやりたい)

そう思った。

“上司”として?

“人として”?

それとも――

答えはまだ出ない。
けれど、その思いが芽生えた瞬間、確かに何かが変わった気がした。

「高梨さん」

「はい、専務」

「……今の報告書、よくできていた。見やすかった」

彼女は、一瞬ぽかんとしたような顔をした。

そのあと、目をまるくして、小さく「ありがとうございます」と呟いた。

照れくさそうに視線を落としながらも、その頬がほんのり赤くなっていた。

たったそれだけの反応が、どうしようもなく、胸に残った。

(何をやってるんだ、俺は)

彼女の努力を知ってから、俺はずっと、距離の取り方に迷っている。

仕事だけに集中していた頃にはなかった、感情の揺れ。

彼女は部下で、俺は上司。
それ以上でも、それ以下でも――

そう、思いたいのに。

心のどこかで、“それだけではないかもしれない”と思ってしまっている自分がいる。

この気持ちが、何なのかは、まだ分からない。

けれど。

彼女の真っ直ぐさに、救われている自分がいることだけは――確かだった。
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