冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
もう少しだけ、彼女を知りたい
午後一番の役員会議を控え、デスクに向かって資料を読み込んでいたときのことだった。
書類の束を確認していると、ふと、カップの中から立ちのぼる香りが鼻先をかすめた。
(……アールグレイ)
ふんわりとしたベルガモットの香り。
少し前に、「あまり甘ったるいものより、柑橘系の香りが好みだ」と何気なく言ったことがあった。
それは、社内の誰に向けたものでもない。
独り言に近いような、思いつきのような一言だったはずだ。
「失礼します、資料の続きです」
そう言って、彼女――高梨澪がそっと新しい書類を差し出した。
カップの傍らに、先ほど入れてくれた紅茶。
湯気の向こう、ほんの一瞬だけ彼女の視線がその紅茶に向いていた気がして――俺は、はっとした。
(……まさか)
一口、カップを持ち上げて飲んでみる。
予感は、確信に変わった。
彼女は、覚えていた。
以前、俺が何気なく口にした“紅茶の好み”を。
(なんで、そんなことまで……)
胸の奥が、不意に温かくなる。
感謝とか、嬉しさとか、そういったわかりやすい言葉ではない。
ただ、心のどこかが、ふわりとほぐれるような、静かな驚きだった。
気づけば、彼女の仕草に目が行くようになっていた。
紙を揃えるときの指先。
資料の位置を細かく調整する慎重な動き。
小さく頷きながら話を聞く表情。
電話の応対のときにほんのわずか眉をひそめる、真剣なまなざし。
以前は“秘書としての振る舞い”として、淡々と受け止めていた。
けれど今は――
そのひとつひとつが、“彼女らしさ”として心に残る。
気づかないふりをして、気づいてしまっている。
笑いかけられると、それだけで気が緩む。
報告されると、自然に耳を傾けてしまう。
話し終えたあと、もう少しだけ声を聞いていたくなる。
(……これは)
何度も自分に問いかける。
これは、“恋”なのか。
でも、彼女には婚約者がいる――
そう、社内で噂されている。
(俺が踏み込む理由は、どこにもない)
(……そうだろ?)
それでも、心は答えを出さなかった。
エレベーターホールで一緒になった帰り際、彼女はいつも通り、軽く会釈をして「お疲れさまでした」と言った。
その声が、少しだけ弾んでいた気がして。
「お疲れ」
自然と返す自分がいた。
ほんの短い一言。
けれど、その一言だけで、足取りがわずかに軽くなってしまう自分が――どうしようもなく、情けなかった。
(俺は何をやっているんだ)
彼女が特別なことをしたわけじゃない。
ただ、少しだけ気を配っただけ。
それだけのこと。
なのに、俺の心は――勝手に、動いてしまっていた。
夜、帰宅して心春を寝かしつけたあと。
リビングで一人、読んでいた書類の行間が、やけにかすれて見えた。
(彼女は……誰のために、あの紅茶を選んだんだろうな)
無意識に浮かんだその問いに、自分で苦笑する。
答えなんて、出るはずがない。
ただの“気配り”だったのかもしれない。
もしくは――“好意”の一部だったのかもしれない。
けれど、それを確かめることは、できない。
彼女には婚約者がいる。
その前提がある限り、俺が踏み込むことは許されない。
そう、分かっているのに。
彼女の一言、彼女の気遣い、彼女の笑顔――
それらすべてが、どうしようもなく心に残る。
(もう少しだけ……知りたい)
気づけば、そう思っていた。
彼女が、どんな紅茶が好きなのか。
休日はどんなふうに過ごすのか。
子どもの頃のこと、家族のこと、夢や過去や、いま抱えているもの。
それらを、ほんの少しでいいから――知りたいと、思ってしまっていた。
(……だめだ)
そう思った直後に、心の中でブレーキを踏む。
これは仕事だ。
彼女は部下であり、俺は上司。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、心の奥では、もうその境界線が――
少しずつ、にじんでしまっている。
書類の束を確認していると、ふと、カップの中から立ちのぼる香りが鼻先をかすめた。
(……アールグレイ)
ふんわりとしたベルガモットの香り。
少し前に、「あまり甘ったるいものより、柑橘系の香りが好みだ」と何気なく言ったことがあった。
それは、社内の誰に向けたものでもない。
独り言に近いような、思いつきのような一言だったはずだ。
「失礼します、資料の続きです」
そう言って、彼女――高梨澪がそっと新しい書類を差し出した。
カップの傍らに、先ほど入れてくれた紅茶。
湯気の向こう、ほんの一瞬だけ彼女の視線がその紅茶に向いていた気がして――俺は、はっとした。
(……まさか)
一口、カップを持ち上げて飲んでみる。
予感は、確信に変わった。
彼女は、覚えていた。
以前、俺が何気なく口にした“紅茶の好み”を。
(なんで、そんなことまで……)
胸の奥が、不意に温かくなる。
感謝とか、嬉しさとか、そういったわかりやすい言葉ではない。
ただ、心のどこかが、ふわりとほぐれるような、静かな驚きだった。
気づけば、彼女の仕草に目が行くようになっていた。
紙を揃えるときの指先。
資料の位置を細かく調整する慎重な動き。
小さく頷きながら話を聞く表情。
電話の応対のときにほんのわずか眉をひそめる、真剣なまなざし。
以前は“秘書としての振る舞い”として、淡々と受け止めていた。
けれど今は――
そのひとつひとつが、“彼女らしさ”として心に残る。
気づかないふりをして、気づいてしまっている。
笑いかけられると、それだけで気が緩む。
報告されると、自然に耳を傾けてしまう。
話し終えたあと、もう少しだけ声を聞いていたくなる。
(……これは)
何度も自分に問いかける。
これは、“恋”なのか。
でも、彼女には婚約者がいる――
そう、社内で噂されている。
(俺が踏み込む理由は、どこにもない)
(……そうだろ?)
それでも、心は答えを出さなかった。
エレベーターホールで一緒になった帰り際、彼女はいつも通り、軽く会釈をして「お疲れさまでした」と言った。
その声が、少しだけ弾んでいた気がして。
「お疲れ」
自然と返す自分がいた。
ほんの短い一言。
けれど、その一言だけで、足取りがわずかに軽くなってしまう自分が――どうしようもなく、情けなかった。
(俺は何をやっているんだ)
彼女が特別なことをしたわけじゃない。
ただ、少しだけ気を配っただけ。
それだけのこと。
なのに、俺の心は――勝手に、動いてしまっていた。
夜、帰宅して心春を寝かしつけたあと。
リビングで一人、読んでいた書類の行間が、やけにかすれて見えた。
(彼女は……誰のために、あの紅茶を選んだんだろうな)
無意識に浮かんだその問いに、自分で苦笑する。
答えなんて、出るはずがない。
ただの“気配り”だったのかもしれない。
もしくは――“好意”の一部だったのかもしれない。
けれど、それを確かめることは、できない。
彼女には婚約者がいる。
その前提がある限り、俺が踏み込むことは許されない。
そう、分かっているのに。
彼女の一言、彼女の気遣い、彼女の笑顔――
それらすべてが、どうしようもなく心に残る。
(もう少しだけ……知りたい)
気づけば、そう思っていた。
彼女が、どんな紅茶が好きなのか。
休日はどんなふうに過ごすのか。
子どもの頃のこと、家族のこと、夢や過去や、いま抱えているもの。
それらを、ほんの少しでいいから――知りたいと、思ってしまっていた。
(……だめだ)
そう思った直後に、心の中でブレーキを踏む。
これは仕事だ。
彼女は部下であり、俺は上司。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、心の奥では、もうその境界線が――
少しずつ、にじんでしまっている。