冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
心の距離が、少しずつ近づいていく
「こちら、本日の最終版です。14時の会議資料、すべて差し替え済みです」
彼女――高梨澪が差し出してきたファイルは、整然とまとめられていた。
資料の並びに無駄がない。
タグで仕切られたインデックス。
数字の書体も、見やすさを意識して工夫されている。
(……ここまで、できるようになったか)
心の中で静かに呟いた。
彼女が配属されてから、もうすぐ半年。
最初の頃は、メールの文面一つとっても誤字脱字が多く、受け答えにもぎこちなさが残っていた。
だが、今の彼女は違う。
必要な情報を的確に伝え、無駄のない段取りで動いている。
それでいて、どこか“丁寧さ”を失わない姿勢はそのままだ。
書類のやり取りも、報連相も、驚くほどスムーズになってきた。
言わずとも動いてくれる場面が増えた。
細かな報告にも、気づかないふりをしてしまいそうになるくらい自然な気配りがある。
(やりやすいな)
一緒に働く時間が、心地いい。
それは、効率の話だけではない。
彼女の存在そのものが――
“隣にいること”が、いつの間にか、当たり前になっていた。
彼女が笑うと、嬉しくなる。
自分に向けたものじゃなくても。
誰かの手助けに満足して、小さく微笑んでいるだけでも。
それを見るだけで、心が軽くなる。
逆に、困っている顔を見ると、手を差し伸べたくなる。
迷っているとき、悩んでいるとき、誰にも頼らず黙って耐えているとき。
何も言わずに頷くだけのその姿が、無性に放っておけなくなる。
(……まずいな)
自分でも分かっていた。
それが“上司”としての感情だけではないことに。
誰かの笑顔で気分が変わること。
誰かの言葉に、無意識に反応してしまうこと。
それはもう、“仕事のパートナー”としてだけでは説明がつかない。
けれど、そのたびに――心の中でブレーキを踏む。
(彼女は婚約者がいる)
そう、聞いた。
給湯室で交わされていた同僚たちの会話。
彼女が「婚約者がいる」と口にしたらしい、という噂。
もちろん、事実確認をしたわけじゃない。
彼女自身が口にしたところを、俺は聞いていない。
けれど。
(そうであるなら、それでいい)
そう思いたかった。
踏み込まなくていい理由があれば、それに甘えていたい。
彼女の隣にいても、安心していられる理由。
笑っても、助けても、それが“恋”じゃないと言える理由。
そうやって、言い訳を続けていたかった。
「……専務。今日の打ち合わせ、少し時間が押しそうです」
「分かった。次の予定に影響出そうなら調整しておいてくれ」
「はい」
やり取りは、ごく事務的なものだった。
それでも、彼女の視線がふとこちらを見上げる瞬間。
目が合っただけで、息を止めそうになる自分がいる。
「……ありがとうございます。では、行ってきます」
その一言に、思わず口元が緩んだ。
「頑張ってこい」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出ていた。
彼女が目を丸くして、すぐに小さく笑った。
その笑顔が、頭から離れなかった。
(……もう戻れないかもしれない)
理性では、何度も線を引いた。
「ただの部下だ」
「婚約者がいる」
「俺が踏み込むべきじゃない」
それらは、正論だった。
職場においてのモラルでもあり、秩序でもある。
でも、気づいてしまった。
彼女を想うたびに、
そのすべてが、少しずつ霞んでいく。
ただの“秘書”じゃない。
“特別”な存在になりかけている。
それでも、口に出すことはできない。
だから今も、言い聞かせている。
(彼女は、婚約者がいる人だ)
自分の気持ちに蓋をして。
感情に、鍵をかけて。
それでも――
その鍵が、少しずつ外れそうになっていることに、
自分がいちばん、気づいていた。
彼女――高梨澪が差し出してきたファイルは、整然とまとめられていた。
資料の並びに無駄がない。
タグで仕切られたインデックス。
数字の書体も、見やすさを意識して工夫されている。
(……ここまで、できるようになったか)
心の中で静かに呟いた。
彼女が配属されてから、もうすぐ半年。
最初の頃は、メールの文面一つとっても誤字脱字が多く、受け答えにもぎこちなさが残っていた。
だが、今の彼女は違う。
必要な情報を的確に伝え、無駄のない段取りで動いている。
それでいて、どこか“丁寧さ”を失わない姿勢はそのままだ。
書類のやり取りも、報連相も、驚くほどスムーズになってきた。
言わずとも動いてくれる場面が増えた。
細かな報告にも、気づかないふりをしてしまいそうになるくらい自然な気配りがある。
(やりやすいな)
一緒に働く時間が、心地いい。
それは、効率の話だけではない。
彼女の存在そのものが――
“隣にいること”が、いつの間にか、当たり前になっていた。
彼女が笑うと、嬉しくなる。
自分に向けたものじゃなくても。
誰かの手助けに満足して、小さく微笑んでいるだけでも。
それを見るだけで、心が軽くなる。
逆に、困っている顔を見ると、手を差し伸べたくなる。
迷っているとき、悩んでいるとき、誰にも頼らず黙って耐えているとき。
何も言わずに頷くだけのその姿が、無性に放っておけなくなる。
(……まずいな)
自分でも分かっていた。
それが“上司”としての感情だけではないことに。
誰かの笑顔で気分が変わること。
誰かの言葉に、無意識に反応してしまうこと。
それはもう、“仕事のパートナー”としてだけでは説明がつかない。
けれど、そのたびに――心の中でブレーキを踏む。
(彼女は婚約者がいる)
そう、聞いた。
給湯室で交わされていた同僚たちの会話。
彼女が「婚約者がいる」と口にしたらしい、という噂。
もちろん、事実確認をしたわけじゃない。
彼女自身が口にしたところを、俺は聞いていない。
けれど。
(そうであるなら、それでいい)
そう思いたかった。
踏み込まなくていい理由があれば、それに甘えていたい。
彼女の隣にいても、安心していられる理由。
笑っても、助けても、それが“恋”じゃないと言える理由。
そうやって、言い訳を続けていたかった。
「……専務。今日の打ち合わせ、少し時間が押しそうです」
「分かった。次の予定に影響出そうなら調整しておいてくれ」
「はい」
やり取りは、ごく事務的なものだった。
それでも、彼女の視線がふとこちらを見上げる瞬間。
目が合っただけで、息を止めそうになる自分がいる。
「……ありがとうございます。では、行ってきます」
その一言に、思わず口元が緩んだ。
「頑張ってこい」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出ていた。
彼女が目を丸くして、すぐに小さく笑った。
その笑顔が、頭から離れなかった。
(……もう戻れないかもしれない)
理性では、何度も線を引いた。
「ただの部下だ」
「婚約者がいる」
「俺が踏み込むべきじゃない」
それらは、正論だった。
職場においてのモラルでもあり、秩序でもある。
でも、気づいてしまった。
彼女を想うたびに、
そのすべてが、少しずつ霞んでいく。
ただの“秘書”じゃない。
“特別”な存在になりかけている。
それでも、口に出すことはできない。
だから今も、言い聞かせている。
(彼女は、婚約者がいる人だ)
自分の気持ちに蓋をして。
感情に、鍵をかけて。
それでも――
その鍵が、少しずつ外れそうになっていることに、
自分がいちばん、気づいていた。