冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる
冷徹な指導と涙の毎日
朝の始業チャイムが鳴る前、私はすでに自分のデスクでパソコンを立ち上げていた。まだ周囲の席には人影もまばらで、静かなキーボードの音だけが秘書課の空間に響いている。
少しでも早く来て、昨日できなかった分を取り戻そう。そう思って早起きしてきたのに、頭の中は既にぐちゃぐちゃだった。脳裏に焼きついて離れないのは、昨日の専務の言葉だ。
――君が何をできるかは知らないし、最初から期待もしていない。
それは明確な拒絶だった。私はあなたにとって、仕事のパートナーとしてさえ期待されていない存在。なのに今日もまた、その人のために資料を用意し、メールを打ち、予定を整える。それが“仕事”というものだとわかっていても、心は容易に切り替えられなかった。
午前九時、専務の出社と同時に本格的な業務が始まる。
会議室の使用スケジュールを見ながら、今日提出予定の書類を確認し、資料を整える。書類の順番、ページ数、ファイル形式。ひとつでも間違えれば、きっとまた――
「……この資料、順番が逆だ。見にくい。やり直し」
淡々とした口調で専務が言う。その目に、感情は見えない。私は思わず声を失い、受け取ったばかりの書類を手の中でぎゅっと握りしめた。印刷ミスはなかった。見出しもつけた。だけど、彼の基準には達していなかった。
「はい、申し訳ありません。すぐに修正いたします」
それだけを返し、席に戻る。足取りが重い。視界の端に、他の秘書たちの視線があるのを感じる。誰も何も言わない。でも、それが逆に堪える。
デスクに戻ると、今度はメールチェック。昨日送った連絡文の返事が来ていた。CCに入れていた専務から、返信が一通。
《件名の表記が不十分。内容も要点が不明瞭。次からは主語を明確に》
短いその文面が、冷たい針のように突き刺さる。心のどこかで「メールぐらい問題なかったはず」と反論したい気持ちがあった。でも、きっと私のレベルでは見落としているポイントがあるのだろう。
「すみませんでした。次から気をつけます」
そうつぶやきながら、震える手でメモを取り、修正案を書き出していく。誤解されないように。間違われないように。怒られないように。そんな“逃げ”の気持ちでいっぱいの文面は、自分でも読み返すのが嫌になるほど弱々しかった。
昼休み。気づけば時計の針は十二時を回っていた。何か食べなきゃと思いながらも、立ち上がる気力が湧かない。ランチに出かけていく他の秘書たちは、私を見ても話しかけてこなかった。
「行かないの?」と誰かが声をかけてくることを、ほんの少しだけ期待していた自分が情けなくて、唇を噛んだ。
食堂へ行く気にもなれず、近くの休憩スペースでコンビニのおにぎりをひとつ食べて戻ると、机の上に赤い付箋が一枚貼られていた。
《至急、専務宛て資料Aと資料Cを再印刷。綴じ方向を間違えないように。吉原》
それだけの内容なのに、視界がぼやける。悔しい。情けない。でも、涙は出さないと決めていた。
午後、専務のもとへ資料を届けに行く。緊張で手汗がにじみ、クリアファイルの表面が滑りそうになる。ノックをして返事をもらい、そっと入室する。
「……今度は間違ってないようだな」
一瞥したあと、専務は書類をデスクに置き、パソコンの画面へ視線を戻した。褒め言葉ではない。ただ、怒られなかっただけ。でも、それだけで少しだけ胸が温かくなる自分がいた。
でも、そのわずかな安堵は、すぐに打ち砕かれる。
「次はプレゼン資料。参考資料の精査が甘い。言葉を並べただけで、意味が薄い」
言葉を選ぶことなく、彼は容赦なく事実だけを突きつけてくる。まるで剥き出しの鋼のように、容赦がない。だけど、その指摘はすべて正しく、私は何も言い返せない。
「……すみません。再度見直します」
ようやくそれだけを返し、部屋を出ると、視界が滲んだ。喉の奥が痛い。泣いてはいけないと思っていても、もう限界だった。コピー機の陰に隠れて、私はひとり、そっと目元をぬぐった。
何もできない。何も通用しない。たった一言の期待もかけてもらえない。
そんな場所に、私はこれから毎日立ち続けるのだ。
でも、それでも。
ここで逃げたら、自分が許せなくなる気がした。
まだ何もできないのは当然だ。新人なのだから。
だったら、これから学べばいい。認められるまで、耐えて、踏ん張って、追いついて――いつか、振り向かせる。
そう決めて、私は涙を拭いて立ち上がった。目の奥がじんと熱いまま、再び自分のデスクへ戻る。冷たい視線があっても構わない。笑われてもいい。
私は、負けない。
たとえ今は、冷たい嵐の真っ只中だとしても。
少しでも早く来て、昨日できなかった分を取り戻そう。そう思って早起きしてきたのに、頭の中は既にぐちゃぐちゃだった。脳裏に焼きついて離れないのは、昨日の専務の言葉だ。
――君が何をできるかは知らないし、最初から期待もしていない。
それは明確な拒絶だった。私はあなたにとって、仕事のパートナーとしてさえ期待されていない存在。なのに今日もまた、その人のために資料を用意し、メールを打ち、予定を整える。それが“仕事”というものだとわかっていても、心は容易に切り替えられなかった。
午前九時、専務の出社と同時に本格的な業務が始まる。
会議室の使用スケジュールを見ながら、今日提出予定の書類を確認し、資料を整える。書類の順番、ページ数、ファイル形式。ひとつでも間違えれば、きっとまた――
「……この資料、順番が逆だ。見にくい。やり直し」
淡々とした口調で専務が言う。その目に、感情は見えない。私は思わず声を失い、受け取ったばかりの書類を手の中でぎゅっと握りしめた。印刷ミスはなかった。見出しもつけた。だけど、彼の基準には達していなかった。
「はい、申し訳ありません。すぐに修正いたします」
それだけを返し、席に戻る。足取りが重い。視界の端に、他の秘書たちの視線があるのを感じる。誰も何も言わない。でも、それが逆に堪える。
デスクに戻ると、今度はメールチェック。昨日送った連絡文の返事が来ていた。CCに入れていた専務から、返信が一通。
《件名の表記が不十分。内容も要点が不明瞭。次からは主語を明確に》
短いその文面が、冷たい針のように突き刺さる。心のどこかで「メールぐらい問題なかったはず」と反論したい気持ちがあった。でも、きっと私のレベルでは見落としているポイントがあるのだろう。
「すみませんでした。次から気をつけます」
そうつぶやきながら、震える手でメモを取り、修正案を書き出していく。誤解されないように。間違われないように。怒られないように。そんな“逃げ”の気持ちでいっぱいの文面は、自分でも読み返すのが嫌になるほど弱々しかった。
昼休み。気づけば時計の針は十二時を回っていた。何か食べなきゃと思いながらも、立ち上がる気力が湧かない。ランチに出かけていく他の秘書たちは、私を見ても話しかけてこなかった。
「行かないの?」と誰かが声をかけてくることを、ほんの少しだけ期待していた自分が情けなくて、唇を噛んだ。
食堂へ行く気にもなれず、近くの休憩スペースでコンビニのおにぎりをひとつ食べて戻ると、机の上に赤い付箋が一枚貼られていた。
《至急、専務宛て資料Aと資料Cを再印刷。綴じ方向を間違えないように。吉原》
それだけの内容なのに、視界がぼやける。悔しい。情けない。でも、涙は出さないと決めていた。
午後、専務のもとへ資料を届けに行く。緊張で手汗がにじみ、クリアファイルの表面が滑りそうになる。ノックをして返事をもらい、そっと入室する。
「……今度は間違ってないようだな」
一瞥したあと、専務は書類をデスクに置き、パソコンの画面へ視線を戻した。褒め言葉ではない。ただ、怒られなかっただけ。でも、それだけで少しだけ胸が温かくなる自分がいた。
でも、そのわずかな安堵は、すぐに打ち砕かれる。
「次はプレゼン資料。参考資料の精査が甘い。言葉を並べただけで、意味が薄い」
言葉を選ぶことなく、彼は容赦なく事実だけを突きつけてくる。まるで剥き出しの鋼のように、容赦がない。だけど、その指摘はすべて正しく、私は何も言い返せない。
「……すみません。再度見直します」
ようやくそれだけを返し、部屋を出ると、視界が滲んだ。喉の奥が痛い。泣いてはいけないと思っていても、もう限界だった。コピー機の陰に隠れて、私はひとり、そっと目元をぬぐった。
何もできない。何も通用しない。たった一言の期待もかけてもらえない。
そんな場所に、私はこれから毎日立ち続けるのだ。
でも、それでも。
ここで逃げたら、自分が許せなくなる気がした。
まだ何もできないのは当然だ。新人なのだから。
だったら、これから学べばいい。認められるまで、耐えて、踏ん張って、追いついて――いつか、振り向かせる。
そう決めて、私は涙を拭いて立ち上がった。目の奥がじんと熱いまま、再び自分のデスクへ戻る。冷たい視線があっても構わない。笑われてもいい。
私は、負けない。
たとえ今は、冷たい嵐の真っ只中だとしても。