冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

孤独といじめ

朝の通勤ラッシュ。混雑した電車の中、私は身動きひとつ取れないまま、吊り革を握りしめていた。向かいの窓に映る自分の顔は、目の下に薄くクマを浮かべていて、唇も乾いている。今日は少し濃いめにファンデーションを塗ってきたけれど、隠しきれない疲れが肌の奥から滲み出ていた。

会社に着くと、まずは給湯室で湯を沸かし、自分のデスクに向かう。小さな当番表のマグネットが“私”の名前を示しているのを確認して、誰よりも早く掃除を済ませ、ゴミをまとめ、資料棚の補充までこなした。

その頃にはすでに先輩秘書たちが続々と出勤してくる。

「おはようございます」

私は笑顔を作って挨拶する。けれど返ってくるのは、「あ、おはよ」と曖昧に交わされる声だけだった。

「澪ちゃん、今日も早いね〜」

「うん、なんか気合い入ってるよね。……そっちの方が“評価”上がると思ってるのかな?」

最後の一言は私の背中に向けられた、小さな呟きだった。

振り返って問い詰めたりなんてしない。そんな勇気も、体力も、今の私にはない。私はただ机に向かって、次の会議資料の手直しに集中した。

それでも耳が勝手に拾ってしまう。

「ほんとにさ、なんで専務の担当に新人がつくのよ?」 「うちで一番有望な独身なのに……。主任、なんか裏で頼まれたのかな」

一ノ瀬専務。イケメンの御曹司だが、冷徹で容赦がない。言葉は的確だけど、優しさは皆無。今まで多くの秘書が担当したが、すぐに辞めたという噂も耳にした。

だからなのか。私は暗黙の“矛先”になっていた。

お昼になっても、誰からも声はかからなかった。

私が手帳を閉じ、立ち上がるその瞬間――

「じゃあ行こっか」「うん、行こう」

三人組の先輩秘書が、私の視界の端をすり抜けていく。その中の一人と目が合った気がしたけど、すぐに逸らされた。

私も行きたかった。ほんの少しでいい、誰かと同じテーブルで、おしゃべりをしながら昼食をとりたかった。でも現実には、誰もその場所に“私の席”なんて用意していない。

一人でビルの隅の休憩スペースに座り、コンビニで買ったおにぎりを袋から取り出す。ラップをはがす指先が震えていた。口に入れても味がしなかった。

何も感じないご飯ほど、虚しいものはない。

午後。戻るとデスクの上に資料の山と、色とりどりの付箋が貼られていた。すべて“お願い”と“指示”の名のもとに、私にだけ押し付けられた雑務だった。

会議資料の製本、来客用の湯呑みの在庫確認、来週の備品発注案の取りまとめ……一人でこなすには明らかに手に余る数。それでも、「やります」と言うしかなかった。

(私がやらなきゃ、また何か言われる)

気を張って取り組んでいても、集中しきれない。書類を一枚コピーし損ねるだけで、「え?これも一緒にって言わなかったっけ?」と眉をひそめられる。

何もかも、細かく見られている。

ふと気づけば、誰かがこっそりと笑っている声が聞こえた。笑われてる。そう感じるだけで、呼吸が苦しくなった。

それでも私は、ただひたすら“黙って頷く”ことしかできなかった。

夕方。ようやくデスクワークが終わった頃には、どっと疲れが押し寄せてきた。人の目が気になって、トイレにもまともに行けず、メイクはすでに崩れていた。

午後七時、ようやく退勤。パソコンを落とし、書類をまとめ、鞄を肩にかけてオフィスを出る。

一歩、外に出た瞬間。

冷たい風が顔に当たって、頬を撫でた。
そのとき、不意に視界が揺れた。

「あ……」

気づけば、涙がこぼれていた。ゆっくりと、でも確実に。止めようとしても止まらなかった。感情が溢れて、立ち尽くす。

帰り道の夜道は静かだった。オフィス街の灯りが遠くに揺れて見えた。どこからともなく、誰かの笑い声が風に流れてくる。

私は、誰にも気づかれない場所で、ただ涙をこぼすしかなかった。

こんなに頑張っているのに。
誰にも認めてもらえない。
何も悪いことはしてないのに、どうして――

そんな思いが胸の奥をぐちゃぐちゃにかき乱す。

だけど、それでも。足を止めることはできなかった。

私は唇を噛みしめ、ポケットの中で拳を握った。
自分を奮い立たせるように、心の中で何度も繰り返す。

「負けたくない……」

一ノ瀬専務にも、冷たい視線にも、自分の弱さにも。
私はここで、ちゃんと認められたい。

自分を信じて、進んでみたい。

たとえ今が、どれだけ孤独でも――私は、きっと大丈夫だ。
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