愛ゆえに。【完】
嘘から始まる愛
推しのマネージャー
あの日から、私は新しい名前で生きている。
日向 乃亜。偽名。偽りの人生。
けれどこの名で、あの人の傍にいられるなら、私は何にでもなれた。
優羽は、私の中の唯一の真実だった。
兄を殺した罪も、愛が歪んでいるという事実も、どうでもよかった。
ただ、彼の笑顔だけが真実だった。
現場へ向かう車の助手席。
私は手帳を握りしめながら、彼の横顔を盗み見る。
透き通るような肌に、伏せられた睫毛。
憂いを帯びたその横顔に、何度、救われただろう。
「……今日のスケジュール、詰まってる?」
優羽の声は、低くて、優しい。
問いかけられただけで、胸がきゅうっと締め付けられる。
「いえ、撮影は午後からです。移動時間含めて、少し余裕があります」
声が震えないように、私は息を殺す。
彼の顔を見てしまったら、表情に出そうだったから。
優羽は、頷きだけで答えた。
沈黙が落ちる。静かな車内に、心臓の音だけが響いているようだった。
――ねぇ、あの時、私が兄を殺したことを知っていたら。
あなたは今、私の隣にいてくれただろうか。
私は、きっと、
その答えを聞くのが怖くて、今日も黙っている。
⸻
撮影所につくと、優羽は静かに降り、私の方を振り返った。
まるで何かを確かめるような眼差しで。
「……乃亜ちゃんって、変わってるよね」
「普通、俺のファンだったらもっと距離縮めようとするのに、どこかで引いてる」
心臓が跳ねた。
彼の目が、私の深いところを見抜こうとしているように感じて、呼吸が苦しくなる。
「そう……でしょうか」
「近づきすぎたら、壊れてしまいそうで。私の方が、ですけど」
言ってから、しまったと思った。
でも、優羽はそれ以上、何も聞いてこなかった。
ただ微かに微笑んで、背を向けた。
その背中に手を伸ばしそうになるのを、私は何とか抑えた。
――触れたい。
けれど、触れたら壊れてしまう。
この関係は、綱渡りだ。
愛しているのに、言葉にすれば全てが終わる。
「……大丈夫。今日も、私は“良いマネージャー”でいなくちゃ」
一度も抱きしめてもらえなくても、
一度も本当の名前を呼んでもらえなくても――
この距離に、私は縋りつくしかなかった。