愛ゆえに。【完】
嘘から始まる愛

推しのマネージャー


あの日から、私は新しい名前で生きている。
日向 乃亜。偽名。偽りの人生。
けれどこの名で、あの人の傍にいられるなら、私は何にでもなれた。

優羽は、私の中の唯一の真実だった。
兄を殺した罪も、愛が歪んでいるという事実も、どうでもよかった。
ただ、彼の笑顔だけが真実だった。

現場へ向かう車の助手席。
私は手帳を握りしめながら、彼の横顔を盗み見る。

透き通るような肌に、伏せられた睫毛。
憂いを帯びたその横顔に、何度、救われただろう。

「……今日のスケジュール、詰まってる?」

優羽の声は、低くて、優しい。
問いかけられただけで、胸がきゅうっと締め付けられる。

「いえ、撮影は午後からです。移動時間含めて、少し余裕があります」

声が震えないように、私は息を殺す。
彼の顔を見てしまったら、表情に出そうだったから。

優羽は、頷きだけで答えた。
沈黙が落ちる。静かな車内に、心臓の音だけが響いているようだった。

――ねぇ、あの時、私が兄を殺したことを知っていたら。
あなたは今、私の隣にいてくれただろうか。

私は、きっと、
その答えを聞くのが怖くて、今日も黙っている。



撮影所につくと、優羽は静かに降り、私の方を振り返った。
まるで何かを確かめるような眼差しで。

「……乃亜ちゃんって、変わってるよね」
「普通、俺のファンだったらもっと距離縮めようとするのに、どこかで引いてる」

心臓が跳ねた。
彼の目が、私の深いところを見抜こうとしているように感じて、呼吸が苦しくなる。

「そう……でしょうか」
「近づきすぎたら、壊れてしまいそうで。私の方が、ですけど」

言ってから、しまったと思った。
でも、優羽はそれ以上、何も聞いてこなかった。

ただ微かに微笑んで、背を向けた。
その背中に手を伸ばしそうになるのを、私は何とか抑えた。

――触れたい。
けれど、触れたら壊れてしまう。

この関係は、綱渡りだ。
愛しているのに、言葉にすれば全てが終わる。

「……大丈夫。今日も、私は“良いマネージャー”でいなくちゃ」

一度も抱きしめてもらえなくても、
一度も本当の名前を呼んでもらえなくても――
この距離に、私は縋りつくしかなかった。
< 3 / 9 >

この作品をシェア

pagetop