歪んだ月が愛しくて3
「リリー?」
その声に振り返ると教室のドアを潜ってまもちゃんとシスターがやって来た。
「まもちゃん?どうしてここに…?」
「シスターの案内で園内を回ってたんじゃが何やら賑やかな声が聞こえたから様子を見に来たんじゃよ。一体何があった?」
「あ、それが…」
「儂は当事者に聞いてるんじゃが、―――乙黒の奥方よ」
稀に聞く低い声。それは会長の声とよく似ていた。
まもちゃんに名指しされた年配女性はビクッと肩を震わせたと同時に両手でハンドバッグを握り締めながら真っ青な顔をして恐る恐るまもちゃんと目を合わせた。
「か、神代会長の、お知り合いの方でしたか…。そうとは知らず失礼致しましたっ」
「質問の答えになってないようじゃが」
「じ、実は、バッグに入っていたはずの財布が紛失してしまいどうしていいか途方に暮れていた時、彼が声を掛けて下さって…」
「して、その財布は?」
「財布は見つかりましたの。ですが財布に入っていた現金が全て無くなっておりまして」
「それは災難じゃったの。しかしこの来訪者の数だ。防犯カメラがないとなると犯人捜しは絶望的じゃろう。その代わりと言ってはなんじゃが…」
パチンッと、まもちゃんが指を鳴らすとどこからともなく葉桜先生が現れた。
葉桜先生は年配女性の前に立って何かを手渡したようだが俺の位置からではよく見えなかった。
「これくらいあれば足りるかの?」
「神代会長、これは…っ」
「折角儂が支援してるバザーに足を運んでくれたと言うのに不快な思いをさせて悪かったの。これはほんの気持ちじゃ」
「ありがとうございます!ここまで良くして下さるなんてやはり私共の娘を気に入って下さったのですね!」
娘?
「親である私が言うのも何ですが、娘は美人な上に器量良しでおまけに…―――」
まもちゃんは眉一つ動かすことなく年配女性の言葉を耳を傾けていた。いや、聞き流しているのか。その証拠に全くと言っていいほど目が笑っていなかった。
「何、儂の大切な場所から犯罪者を出したくなかっただけじゃよ」
「―――え?」
「ここの子供達の行き着く先は良くて高卒のフリーター、最悪犯罪者…だったかの?お主の声はよく通る声じゃな。お陰で教室の外まではっきりと聞こえとったわ」
「い、いえ…、それは…」
「安心しなさい。子供達の行く末はお主のような肩書きだけの薄っぺらい大人には任せんから。子供達の心に寄り添い、子供達1人1人にあった教育が受けられるように適任者の選定はシスターに一任している」
「お任せ下さい」
「わ、私はこの環境をより良くしたくてっ」
「お主の出る幕じゃないと言ってるのが分からんのか?これだから無駄に歳食った老害と言われるんじゃよ」
「っ、」
そっとまもちゃんの耳元に顔を近付ける。
「まもちゃん、いつから聞いてたの?」
「はて、あの少年が財布を持って来た辺りじゃったかの?」
「ほぼ最初の方じゃん」
この性悪め。
「た、確かに…、私も言葉が過ぎたところはあったと思います。しかし元はと言えば彼が私を疑うような発言をしたからで…っ」
「ほお、自身の失言をリリーのせいにするとは。儂の大事なもんを貶す権利がお主にあるのか?」
「だ、大事…?この彼がですか?」
「乙黒の奥方よ、うちとは何の関わりもないお主に言っても分からないじゃろうが、この子の存在は儂にとっても神代にとってもなくてはならない宝物のような子での。その宝物を貶されて儂が心穏やかでいられると思うか?その上儂が支援するこの施設をボロクソ言いおって…。この件は正式に抗議させてもらう」
「そ、そんなっ!知らなかったんです!彼が会長様の大事な方だと!それに私は会長様が支援しているこの施設について言ったのではなくあくまで一般論として述べたまででして…っ」
「もういい。下がらせろ」
葉桜先生が年配女性の腕を掴んでこの場から下がらせる。
その間も年配女性は「待って下さい会長様!私の話を聞いて下さい!会長様ぁ!」と最後までみっともない姿を晒していた。
「嫌な思いをさせてすまなかったの、リリー」
「俺は何ともないよ。それより子供達と職員さん達のフォローをお願い」
「それは私にお任せ下さい」
「あ、シスター…」
「リリー様、先程はありがとうございました。私共のために声を大にして立ち向かって下さって心より感謝申し上げます」
「お礼を言われるようなことはしてませんよ。寧ろ俺のせいで逆上させちゃったようなものですし…。こっちこそ折角のバザーなのに水を差すような真似してすいません」
「とんでもありません。貴方の勇気ある姿に私を含むこの場にいる職員は皆心を動かされたことでしょう。リリー様の言動の全てが私共の行いを肯定して下さったのですから感謝しかございません」
胸の中心で両手を組み穏やかな笑みを浮かべる、シスター。
その後ろには職員達が控えており何故か首を上下に動かしながら目を輝かせていた。
当たり前のことしか言ってないのにそこまで感謝されると居た堪れない気分だ。
「あの…、財布の件はどうなるんですか?」
俺の後ろから顔を出した未空がシスターに問い掛ける。
「職員やここで暮らす子供達には事情を話して聴き取り調査などは致しますが…」
「来訪者は無理じゃろうな。防犯カメラがない以上犯行時間を特定することも犯人の人相を特定することも出来ない。そんな曖昧な情報で来訪者1人1人を止め置いて身体検査するなんてことはまず不可能じゃ」
何より被害品が現金だけと言うのが痛い。クレジットカードや身分証、財布そのものを盗ってくれた方がまだ犯人捜しの仕様があった。そうすれば責任者の権限で来訪者を1人1人チェック出来たかもしれないのに。
でもだからこそ自然と犯人像が浮かび上がって来る。
「そうですか…」
チラッと、未空の視線の先には先程財布を持って来てくれた少年がいた。
思えば未空はあの少年が現れてから言葉数が少なくなりずっとあの少年を目で追っていた。
少年は職員と何やら話をした後、俺達の下まで来て「助けてくれてありがとうございました」と頭を下げて教室から出て行った。
すると未空は後を追うように「……ちょっとトイレ行って来ます」と言って教室を出た。
未空がやろうとしてることは何となく分かる。だからこそ1人で行かせるつもりはなかった。当然俺も未空の後に続いて教室を出ようとした時、不意に「リリー」とまもちゃんに声を掛けられた。
「彼奴のこと、頼んだぞ」
ああ、もしかしてまもちゃんは…。
まもちゃんの隣にいるシスターの困り顔を見て彼等の思惑を全て悟った。