歪んだ月が愛しくて3
『お前が俺を変えたんだ。だから次は俺がお前を変えてやる』
あの日から尊は施設に来なくなった。
喧嘩?言い合い?それが原因ではないと思うけど、尊が何を思ってあんなこと言ったのか未だに分からないでいた。
嫌われた…、わけではないと思う。初めて人前で声を荒げたけどそんな俺を尊は追い掛けて来てくれたし、拒絶されたわけじゃないってことも分かったから一応和解は出来たと思うんだけど。
尊がいないと暇だ。退屈だ。尊の言う通り俺は暇を持て余していた。でもやっぱり学校に行く気にはなれなくて、だからと言って他にすることもない。
「ぼくってひまじんなんだ…」
初対面で尊に言われた言葉を思い出して思わず口にすると。
「そんな仙堂くんにピッタリのお仕事がありますよ」
そんな言葉と同時に俺のお気に入りの場所に姿を現れたのは園長先生だった。
いつ見てもニコニコと穏やかな笑みを崩さない園長先生は「お掃除を手伝ってくれないかしら?」と言って俺を教会に連れて行った。
「この間は嫌な思いをさせてごめんなさい」
「このあいだ?」
「神代家の方から話は聞きました。貴方を犯人と決め付けるようなことを言って…、本当にごめんなさいね」
「そのことならだいじょうぶ。みことがたすけてくれたから」
「仙堂くんは尊坊ちゃんと仲良しなのね?」
「ぼっちゃん?みことってえらいひとなの?」
「何れそうなるかもしれない人よ」
「ふーん…」
尊って偉い人だったんだ。
だから子供なのにあんなにも堂々と黒服の人達を従えてたのか。
『―――これは“神代”の決定だ』
………あ。
「それはみことが“かみしろ”だから?」
「仙堂くんは“神代”が何を指してるのか分かる?」
「わからない。……でもおとなでもいいかえせないすごいものってことはわかる」
「そうね。それはとても凄い存在で誰も太刀打ち出来ない巨大な力。使い方次第では善にも悪にもなる存在よ」
「あく、にも?」
「ええ。でも私にとって神代家の方々は恩人だからその使い方を間違えないように陰ながらお祈りしているの。神代家に幸あれとね」
「おんじん…?えんちょうせんせいもみことにたすけてもらったの?」
「私を助けてくれたのは尊坊ちゃんのお祖父様よ。仙堂くんはまだ会ったことがなかったわね。あの方はとても厳しい方だけど誰よりも慈悲深い方でもあるの。そして何よりもこの国の宝である子供達を大切にされているわ。誰もが見て見ぬふりをしていた劣悪な現状をただ1人保身に走ることなく正面から向き合ってくれたの。だから私は今ここにいる、貴方と一緒よ」
俺と一緒?
園長先生の言葉に首を傾げた。
母親に捨てられた俺と大勢の人から慕われてる園長先生が俺と同じなわけがない。でも園長先生の目は嘘を吐いているようには見えなかった。
「貴方は人を…、特に大人を信用することが出来ないのでしょうね。だからいつも職員や他の子供達を遠ざけるようにあの場所で1人でいる。そんな貴方に私の言葉が響くかは分からないけどこれだけは言わせて頂戴。貴方がこの先誰と出会ってどんな人生を歩んで行くとしても貴方は決して独りじゃない。例え独りになりたくても貴方を気に掛けて貴方に手を伸ばしてくれる人は必ず現れる。恐るなとは言わない。人を無条件に信じることは誰だって怖いものよ。それでもほんの少しだけ勇気を出してその手を掴むことが出来たら貴方は自分の力で自分の人生を変えたことになる。それは貴方が過去を乗り越えて強くなった証。貴方にとって唯一無二のものになってるはず。だから諦めないで。ほんの少しだけ勇気を出してみて。そうすればきっと今よりも明るい未来が待ってるはずだから…」
(明るい未来、か…)
未来のことなんて考えたこともなかった。
ただいつか母親が迎えに来てくれるって漠然とした期待を抱いていただけ。ただそれだけだった。迎えに来てくれた後のことなんて想像したこともない。……いや、想像したくなかったのかも。母親と暮らしていたあの時と今の状況があまりにも極端で、その落差を自分の中で受け入れることが出来なかった。今の環境を維持しながら母親と暮らすことは出来ないと心のどこかでは分かってたんだ。だって想像出来ないよ。俺を抱き締めてくれたこともない人と、俺の名前を呼んでくれたこともない人と、俺はこれからどうやって生きて行けばいいんだろう。
『アンタなんて生まれて来なければ良かったのよ!』
もうあんな言葉は聞きたくないよ…。
誰かと言葉を交わす楽しさを、誰かに自分の存在を受け入れてもらえる喜びを、こんな俺の目を見て綺麗だと言ってもらえた嬉しさを、俺はここに来て初めて知ることが出来た。
もうあの頃には戻りたくない。俺がこの先ずっと一緒にいたいと思うのは…―――。
それから1週間が経った頃、今日も尊は来ないのかと落胆していたところに再び園長先生から呼び出された。
「仙堂くん。お迎えが来たみたいですよ」
「……え?」
迎え?まさか母親が…。
小刻みに震える身体を両手で抱き締める。
するとそんな俺の肩に園長先生の手が乗った。
「大丈夫ですよ。何も心配することはありません」
「えんちょ、」
「さあ、顔を上げて。貴方の新しい家族が貴方のことを待ってますから」
園長先生に背中を押されて一歩足を踏み出す。そしてもう一歩、一歩と。気付けば俺の足はいつものあの場所に向かって走り出していた。
はぁ、はぁ…と、呼吸を整えることが出来ぬままあの場所に着いて目を疑った。
「な、んで、みことが…」
そこには暫く見ないうちに少し大人っぽくなった尊が静かに佇んでいた。
日の光を凝縮したような金色の髪が風に揺られてサラサラと靡く。綺麗だった。本当に。まるで絵画のモチーフが抜き出て来たみたいにその一画だけが別次元のように思えた。
それなのに気の利いた言葉一つ出て来なくて呆然とその姿を見つめていると。
「迎えに来た」
「む、かえって…。どこかいくの?」
「ああ、お前の新しい家に。今日から俺がお前の家族だ」
「……え?」
その言葉に自分の耳を疑った。
新しい家?尊が俺の家族?
「俺はお前を否定する人間が許せない。いくら時間が経って嫌な記憶が風化されようと心に根付いたもんはそう簡単には消えてくれない。だからそんなもんをお前に植え付けた奴のことなんて正直忘れた方がいいとも思ってる。まあ、こればっかりはお前次第だけどな」
忘れる…?
そんなこと本当に出来るのだろうか。考えたこともなかった。
「でも忘れる忘れないを決めるのはお前だ。お前の好きにしたらいい。ただ俺はお前の力になりたい。だからこれからは顔も名前も覚えてねぇババアなんかじゃなくて俺のことを待てばいい、この先ずっと」
「な、で…、そこまで…」
「言っただろう、次は俺がお前は変えてやるって。だから初っ端はそのダセェ名前を変えることにした」
不意に尊に手を引かれて俺の身体に2本の腕が回された。そして俺の耳元で。
「―――未空。今日からそれがお前の名前だ」
変な気分だった。
初めて聞く名前なのにその響きは何の違和感もなくすんなりと俺の心の内に入って来た。まるで初めから俺の一部だったみたいに。
「みことが、かんがえてくれたの…?」
「不満か?折角お前の要望通り名前を呼んで抱き締めてやってるって言うのに」
『このめ…、ずっときらいだっていわれてたから。だから、なまえでよんでもらったことも、だきしめてもらったこともない…』
「おぼえてたんだ…」
「物欲しそうな顔してたからな」
そんな顔したつもりはなかったけど、俺に欠けたものを全て持っている尊からしたらそう見えたのかもしれない。
「ねぇ、なんでみくなの?どうして?」
「それは……、何となくだ」
「なんとなく…。てきとうってこと?」
「はぁ?ふざけんな。練りに練って考えてやったに決まってんだろうが、この鈍感」
「じゃあなんでなんとなくってうそついたの?」
「何となく=適当ってわけじゃねぇんだよ」
時々尊は難しい言葉を使う。俺がバカだから理解出来ないのか、尊が高次元の存在だから理解したいと思うこと自体烏滸がましいのか。
でも尊とはこれから先もずっと一緒にいたい。足手纏いにはなりたくない。あの頃には戻りたくない。
『―――だから諦めないで。ほんの少しだけ勇気を出してみて』
俺が諦めなければ、俺がほんの少しだけでも勇気を出せれば、それで俺の未来が少しでも良い方向に変わってくれるなら…。
「帰るぞ、未空」
自分の居場所なんてどこにもないと思っていた。
でも繋がれたままの手が俺にここにいてもいいのだと言ってくれてるように思えた。
ああ、俺の帰る場所は尊だったのか。
「……うんっ!」
今の俺に出せるありったけの勇気を振り絞って尊の手を強く握った。
その日から俺は尊の義弟として神代家の一員となった。