歪んだ月が愛しくて3
“藤の間”を出た後、俺はすぐに自分の部屋へと戻り2人の人物に電話を掛けた。
電話は5分程度で終わったが、クローゼットから黒の服を引っ張り出したり万が一未空が訪ねて来た時に誤魔化せるようにちょっとした細工をしてたら準備に10分以上も掛かってしまった。何やかんやで部屋を出たのは22時を回っていた。今から向かえば日付が変わる前には合流出来るだろう。
そっと後ろ手に部屋の扉を閉め廊下に誰もいないことを確認した後、駆け足で1階の従業員専用の裏口を目指した。
しかし―――、
「どこに行く」
下の階へと続く階段に差し掛かった時、聞き馴染みのある低い声が背後から聞こえて来た。
咄嗟に足を止めて勢い良く振り返ったそこには腕を組みながらバルコニーの手摺りに体重を預ける会長が萎縮させるような鋭い眼光を金糸の隙間から覗かせていた。
「会長…」
部屋を出た時、廊下に人の気配は感じられなかった。
どうやら開け放たれたバルコニーから吹き込む風がカーテンのゆらめきと共に会長の存在を隠していたようだ。
「随分急いでたみたいだが、こんな時間からどこに行くつもりだ?」
「……喉が渇いたんです。だから厨房に行って水をもらおうかと思って」
「何かあれば内線で人を呼べと言われなかったか?」
「内線があるのは知ってますけど、そんなことで人を呼び付けるのは気が引けたんですよ。だって俺ここの家の人間でも別に偉い人でも何でもないし、ただの普通の高校生だし、そんな奴に顎でこき使われたら誰だって良い気はしないでしょう?だったら自分でもらいに行けばいいかなって」
「高校生云々の前にお前はジジイの客人として屋敷内にいる全ての人間から周知されている。顎でこき使われて良い気しないどころか隙あらばお近付きになりたいってのが本音だろうよ」
「あははっ、まさか。俺にそんな価値ないよ」
そう言って笑って誤魔化すと何故か会長に「本当人の話を聞かない奴だな…」と呆れられた。
「まあいい。お前の苦し紛れの戯言に付き合ってやったんだ。次は真面目に答えろ。一体その格好でどこに行くつもりだ?」
「だから厨房だって言ってるのに…」
「そんな格好しといて言い逃れ出来ると思ってんのか?」
「そんな格好って何?俺の美的センスを疑ってるわけ?」
まあ、そんなもん俺にはないけど。
態と見当違いなことを言ったのは会長の真意に気付いたからだ。
「かの有名な族潰しは全身を黒い服で覆っていると聞いたことがあるが…」
ほらね。
会長の黒曜石が俺の内心を見極めようとしている。
「別に好きで着てるわけじゃないよ。黒の服を着てるのは汚れても目立ちにくいからってだけ。白い服着てる時にカレーをこぼしたくないのと一緒の心理だよ」
俺の言葉を肯定と受け取った会長は徐にバルコニーから離れて俺に向かって足を進める。
「白羊に行くのか?」
「さあ、どこだろうね」
「側近の誰かと接触するつもりか?何のために?」
「急かすね。まだどこに行くかも言ってないのに」
「お前のその格好が何よりの証拠だ。“藤岡立夏”ではなく“白夜叉”として誰かと会うつもりだから態々そんな服まで引っ張り出して来たんだろう」
「偶々かもしれないよ?」
「だとしたらそんなセンスのない服をお前に贈った奴の顔を見てみたいものだな」
「やっぱり俺の美的センスを疑ってたんじゃん」
会長は嫌味なくらい察しが良い。そのくせ俺の口から言わせようとしてるから質が悪い。
どうせこの服の出所にも気付いているんだろうな。
「立夏」
ピタッと、会長は俺の前で足を止めた。
会長の手が俺の行く手を阻むように階段の手摺りを掴んで俺を至近距離から見下ろす。
「本当に行くのか?」
「……うん」
その瞳に怒りは感じられなかった。
でもその不機嫌そうな顔から察するに本心では行かせたくないのだろう。理由までは分からないが顔に「面白くない」と書いてある。
「いつ戻る?」
「明日の朝には。まもちゃんとも約束したし」
「チッ、やっぱりあのクソジジイか…。ジジイと何の約束をした?アイツはお前がどこで何をするのか全部知った上でお前の外出を許可したのか?」
「さあ?まもちゃんが何を考えてるのかなんて俺には分からないよ」
ただまもちゃんは俺がやろうとしてることに気付いているだろうな。
すんなり黙認してるのがその証拠だ。直接俺に聞くまでもないから何も聞かれないのだろう。
俺も相手がまもちゃんじゃなければもう少し動揺しただろうけど、まもちゃんが神代財閥の総帥で子供の頃からあの性悪っぷりを直に見て来たからこそ「ああ、やっぱり」の一言で納得してしまった。知りたがりと言うか自分だけ除け者にされてるのが面白くないんだろうな、被害妄想だけど。
「……俺も行く」
ボソッと聞こえたその声に思わず耳を疑った。
「は?行くってどこに…」
「白羊に行くなら俺も連れて行け」
会長の目を見た瞬間、本気だとすぐに分かった。
冗談でもおふざけでも何でもない。だからこそはっきりと拒絶しなければいけないと思った。
「つ、れて行くわけないじゃん。何言ってんの?大体会長は今仕事から帰って来たばっかだろう。どうせ明日も仕事なんだろうからもう少し自分の身体を労ってあげなよ。大した用もないのに夜更かししてるとマジで身体壊すよ」
「大した用かどうかは俺が決めることだ」
「自分の身体を一番に考えろって言ってんだよ。今日だって無理矢理スケジュールを調整してまで未空のために時間作ってたじゃん。他人にお優しいのは結構だけどそれで自分がぶっ倒れたら元も子もないし相手に余計な気を遣わせるだけだろう」
「仕事が多忙なのは今に始まったことじゃない。お前に言われなくとも自分の体調管理くらい自分で出来る、余計なお世話だ」
「っ、」
余計なお世話?
いつもなら軽く受け流せたはずの言葉が俺の中で消化不良の塊となって蓄積されていく。
会長からしてみたら俺の言葉なんてただの口煩い小言にしか聞こえないのかもしれない。考えてみたら他人である俺に会長のことをどうこう言える資格はない。それなのに俺は何を勘違いしてたんだろう。生徒会に入って、会長専属のパシリに任命されて、仲間と言ってもらえたからって物理的にも精神的にも距離が近くなった気でいたけど全部俺の勘違いだったんだ。
『早くしろ。俺の女房なんだろう?』
『口煩い女房役がいないとつい時間を忘れがちでな』
何が女房役だ。そんな戯言を鵜呑みにしてたなんて痛い奴にもほどがある。
結局俺は会長にとってただの後輩でしかなくて、大切な義弟でもましてや好きな人でも何でもない赤の他人。
『それにいくらお前に頼まれたところで忘れられるわけねぇだろうが…』
一度受け入れてもらえたからって勘違いも甚だしい。
(ああ、消えてしまいたい…っ)
思考にモヤが掛かったみたいに何も考えられない。
その間も会長は険しい顔で何やら喋っていたが所々しか聞き取れなかった。多分「俺はお前の正体を知ってんだからついて行っても問題ないだろう」的なことを言いたいのだろうが、今はどんな言葉を並べられても素直に受け入れることが出来なかった。
「問題大有りだわ…」
「り、」
ドンッと、会長の言葉を遮るように会長の胸を両手で押して距離を取り少しの隙間から顔を上げた。
本当は今思ってることを全部吐き出してしまいたい。でもそんなことをしたら余計なことまで喋ってしまいそうでグッと拳に力を入れて我慢した。今の俺には目の前の黒曜石を睨み付けるだけで精一杯だ。
「……絶対に、嫌」
そう言って会長の身体に態とぶつかりながらバルコニーまで走り、バルコニーの手摺りを飛び越えて1階の中庭へと着地した。
頭上から俺の名前を叫ぶ会長の声が聞こえる。
「立夏っ!」
焦ってるような、怒っているようなそんな声。でも今はその声に反応する気にはなれなかった。タイムリミットが決まっているため早々にここを発たないと明日の朝食までに帰って来れないし、何よりこれ以上会長と面と向かって話したくなかった。距離が縮まったと勘違いして自惚れていた自分が恥ずかしい。
会長から逃げるように中庭を駆け抜けて従業員専用の裏口へと向かい、近くで待機していたナツと合流しナツが運転する単車の後ろに乗って目的地へと急いだ。