歪んだ月が愛しくて3
デザートを食べ終え食後のコーヒーを飲んでいた最中、会長は唐突に話を切り出した。
「お前、夏休みはどうするつもりだ?」
「ん?どうするって?」
「……帰るのか?実家に」
「あ、あー……それね。それって強制?絶対帰らなきゃダメな感じ?」
「いや」
「じゃあ帰らないかも。兄ちゃんには宿題終わったら帰るって言ったけど、片道2時間のバスって結構キツいし、帰ったところで特にやることもないし…」
まあ、実際はどうなるか分からないけど、帰りたくないってのが俺の本心だ。
ただ夏休み中に兄ちゃんの彼女と会わなきゃいけなくなったから一度は帰ることになるだろうけど。
……今度こそ、ちゃんとおめでとうって言えるかな。
兄ちゃんには幸せになってもらいたい。
今まで苦労して来た分、これからの人生は自分のためだけに生きて欲しい。
あの時の言葉に嘘はない。
そう願うことが俺に出来る唯一の恩返しだと思っている。
「……なら、どこか出掛けないか?」
「へ?」
その言葉に反射的に顔を上げて会長を見ると、どこか不安そうな表情で俺を見つめる会長と目が合った。
出掛ける?
俺と、会長が?
「俺は仕事の都合で一旦帰省するが、夏休み中ずっと会社に缶詰ってわけじゃない。少しくらい息抜きしたってバチは当たらねぇし、ご褒美があった方が仕事が捗るからな」
「ご褒美って…」
俺と出掛けることが?
そんなことがご褒美になるの?
「お前さえ良ければ、2人で…」
「………」
戸惑いを隠せない俺に会長が追い打ちを掛ける。
いつもの自信満々な口調とは裏腹に、躊躇うような口調と不安げな眼差しがそれでも俺を真っ直ぐに見つめている。
黒曜石と、視線が絡む。
「……話って、もしかしてそれ?」
「ああ」
……何だそれ。
俺なんかと出掛けたいって…、そんな約束をするために態々自分の家から使用人を呼んでまでこの場所をセッティングしたってこと?
そんなの部屋の前で済む話じゃん。
いつもみたいに命令すればいいだけなのに何でそんな面倒なこと…。
そもそもナツ達のことは聞かないわけ?
あんな意味深なメール送られて気になんないの?
頭の中で反響する疑問を「嬉しい」と言う感情が打ち消そうとする。
都合の良いことしか考えられない。
そんな自分に反吐が出る。
「……嫌か?」
俺の手の甲に、会長の手が重なる。
眉尻を下げて話す会長を見て、不覚にも可愛いなんて思ってしまった。
……重症だな。
でも、その顔を曇らせたくないと思った。
そう思った時点で俺の答えは決まっていた。
「……行く、絶対」
嬉しい気持ちを悟られないようにいつも通り返答したつもりだが、目の前にいる会長には何もかもお見通しみたいでぎゅっと俺の手を握った。
「その言葉、忘れんなよ」
不安げな眼差しが一変し、満足そうに瞳を細めた。
その笑顔に胸の奥がギュンと痛かった。
……ああ、本当、忘れたくないよ。
俺を見つめる黒曜石を真っ直ぐに見返しながら心の中で祈った。
(この時間がずっと続けばいいのに…)
そんな夢見たいなことは絶対に叶わないって分かってるけど。
でも今だけはこの夢が一生醒めなければいいのにって、本気でそう思ったんだ。
ほんの少しの期待と、漠然とした不安。
そしてすぐそこまで迫り来る闇を背後に感じながら、俺の夏休みが始まった。