堕ちていく

第31話 はじめての、「ただいま」

春の終わり。
新緑の風が、古民家の小さな庭にそよいでいる。

今日は、「光の図書室」開所の日。

紗英は、白いブラウスにベージュのスカート。
車椅子のひざの上には、オープニングイベントで読む予定の新作絵本『くまくんのひだまり』がのっている。

航平は、玄関に手作りの看板を立てていた。
「ようこそ 光の図書室へ」──その横には、くまくんのイラストが添えられている。




午前10時。
最初の親子がやってきた。

緊張した面持ちの、若い母親と、小学1年生くらいの男の子。
男の子は自閉スペクトラム症で、言葉が少なく、知らない場所が苦手だという。

「こんにちは。よかったら、靴はそのままでいいですよ」
航平がにっこりと声をかける。

すると、紗英がゆっくりと車椅子で近づいてきて、優しく微笑んだ。

「この“くまくん”の部屋、静かなんです。よかったら、入ってみますか?」

男の子は、じっと紗英を見つめていた。
しばらくして、手を引かれながら“くまくんの部屋”──防音クッションで囲われた静かなスペース──に入っていった。




その日の午後、読み聞かせの時間になった。

集まったのは、5組の親子と、地域のボランティア数名。
部屋の隅では泣いている子もいたけれど、それでよかった。
誰かが泣いても、誰かが動き回っても、怒る人はいない。

「それでは、はじめますね」

紗英は、柔らかい声でページをめくる。

> 『くまくんは、ある日、悲しくて歩けなくなってしまいました。
でも、ふわふわの草の上にねころんで、空を見上げてこう言いました。
──“あ、ぼく、ここにいていいんだ”』



その瞬間、さっきの男の子がそっと紗英の車椅子の横に座った。

母親が、そっと涙をぬぐっている。




読み聞かせのあと、航平が言った。

「ここは、“ただいま”って言える場所にしたいんです。
居場所を探している子どもたちにとっても、大人にとっても」

紗英は、頷いた。

「“ようこそ”って言える場所を、ここに作りたかったんです。
はじめて来るのに、“ただいま”って言えるような」



その日、「光の図書室」は確かに息づいた。

小さな子どもたちの笑い声、泣き声、優しい絵本のページをめくる音──
どれもが、希望の音だった。

紗英は、子どもたちの笑顔を見つめながら、そっと航平の手を握った。

未来はまだ先にある。
でも、今ここに、“ひとつの光”が灯ったのだ。

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