豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網
「失礼致します。ちょっとレストルームへ」

 目の前で繰り広げられる茶番劇に辟易し、お手洗いを理由に席を立つ。
 気分が悪いとでも言って先に帰らせてもらおう。
 間接照明に照らされた鏡に写る自分の顔は、青白く血色が悪い。最近の寝不足もたたり、目の下のくまも化粧で隠せないほどに濃い。誰も引き止めはしないだろう。
 水で手を洗えば、その冷たさが荒ぶる心をわずかに静めてくれる。

 気合いを入れなくちゃ。
 吉瀬さんだけには弱味を見せられない。

 吉瀬美沙江という女が、笑顔の下に残忍な本性を隠し持っていると女の勘が告げている。
 失態を犯す前に逃げ出そうと心に決め振り向いた時だった。扉に背をつけ、こちらへと意味深かな笑みを浮かべた吉瀬さんと目が合い、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

「冬野さん、でしたっけ。ふふふ、ずいぶん具合が悪そうですけど、大丈夫ですか?」

 笑いながら紡がれる言葉が刃となり心に突き刺さる。

「いいえ、ご心配にはおよびません」
「そう……、でも貴方がいると邪魔なのよね」

 笑みを消し不機嫌そうな態度を取る彼女こそが、吉瀬美沙江の本質なのだろうか。
 あからさまな挑発を受け、麻里奈ちゃんに言われた言葉が脳裏をよぎる。

 男を手玉に取る女狐か……
 邪魔な女を蹴落とし、男には媚を売る。そして己の立場を利用して欲しい男を手に入れる。女狐というより女豹と言った方が正しい気がするわねと、どうでもいい事を考えていなければ、敵愾心むき出しの女との戦いにのまれてしまう。
 というか、そもそも戦う必要があるのだろうか?
 橘にとって吉瀬美沙江は忘れられない女で、私は彼女の身代わりでしかないのだ。
 橘のことで吉瀬美沙江に勝てる要素は何一つない。

「そうですか……、心配しなくともあなた方の逢瀬を邪魔するつもりはありません」
「そう? 私の勘違いかしら。真紘と一緒に住んでいると思っていたのだけど」

 美沙江の言葉に一瞬、息をのむ。
 彼女はどこまで橘真紘の現在を調べあげ、ここに立っているのだろうか。執着とも取れる彼女の発言に恐怖すら感じる。
 過去はどうであれ、今の彼女にとっても橘真紘は、忘れられない男ということだ。

 ほんと……、私に勝てる要素なしね。

「えぇ、そうですね。ただ、彼とは利害が一致しただけの関係に過ぎませんから」
「そう……、なら、真紘とはすぐに別れてちょうだい。仕事に忠実な貴方ならわかるでしょ。このプロジェクトを成功させたいなら、なおさらね」

 あからさまな脅しを受け、拳を握る。何も言い返せない自分がやるせない。しかし、吉瀬さんに刃向かったところで、私に勝ち目なんてないことも理解している。
 吉瀬さんが橘の側から私を排除したいと言うのなら従うしかない。プロジェクトに私情を挟み、契約が頓挫するなどあってはならないのだから。

「えぇ、もちろんです。では、お先に失礼させていただきます」

 深々と頭を下げ、足早に美沙江の横を通りすぎる。扉を開け店内へと足を踏み入れたが、そのまま客席へと戻ることだけは出来なかった。

 きっと吉瀬さんが適当に誤魔化すわね。

 足早に店内を抜けガラス扉を開けネオン輝く街中へと出れば、陽気な音楽が耳に入り、歩く人々の顔にも笑顔が浮かんでいた。

 しかし、私の心は沈んでいく。
 悔しいのか、悲しいのかさえもわからない。ただ、心に広がる虚無感が叶わない想いへの執着のようにも感じられ、なおさら自分が惨めになる。
 もう、何も考えたくない……
 雑踏に紛れれば、少しはこの惨めな気持ちが救われるのだろうか?
 しかし、そんなこと叶わないとわかっている。結局、私は美沙江という女から逃げ出したのだ。
 心に広がる虚しさが消えることはない。
 ゆっくりと足を止め、振り返る。しかし、そこに期待する人物はいない。

「馬鹿みたい……、追ってくるはずないのにね」

 すべてに背を向け逃げ出したのに、何を期待していたのか。期待している自分が一番、惨めで、虚しいとわかっているのに。

「帰ろう……」

 前を見据えゆっくりと歩き出した私は、大通りへ出ると流しのタクシーを拾い、後部座席に深く座り瞳を閉じる。
 もう、限界よ。全てを終わりに。
 滲んだ視界が闇に閉ざされ、頬を一筋流れた涙が手を濡らした。
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