豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網
「鈴香……、鈴香……」

 暗闇の中、私の名を呼ぶ声が意識を浮上させる。重い瞼を無理矢理あげた先に見た顔に反射的な笑みが口元に浮かんだ。

 真紘……

「鈴香、こんなところで寝ていたら風邪ひく。着替えもしていないし。具合が悪くて先帰ったんじゃなかったのかよ!」
「……具合が悪くて、先帰った?」

 今夜起こった出来事が脳裏にフラッシュバックし、唐突に怒りが込み上げる。
 真っ暗な部屋の中、橘の帰りを待ち続けた。『好きだ』と言ってくれた彼の言葉だけを信じ待ち続けた。十時を回り、時計の針が零時を回っても待ち続けた。でも、橘は帰って来なかった。
 それが、彼の答えなのだ。
 忘れられなかった元彼女が目の前にいるのだ。吉瀬さんが橘を誘えば断ることなんて出来ない。
 そもそも私を本気で好きになるなんてあり得ない。だって、橘にとって私は吉瀬さんの身代わりでしかなかったのだから……
 眠気交じりのボーッとする頭では、理性なんて上手く働きようもなかった。

「ははっ、具合が悪い? そうね、確かに気分が悪いわ。他の女の匂いを纏わりつかせたアンタと一緒じゃ、気分だって悪くなる」

 ただの同居人に彼の行動をとやかく言う権利はない。しかも、吉瀬さんからも、橘からも逃げ出したのは他ならぬ自分自身だ。彼にとって私の言動は理不尽以外の何ものでもないだろう。しかし、ついて出た言葉は止まらなかった。

「吉瀬さんとは上手くいったのかしら? 良い雰囲気だったじゃない。いっそのこと、二人でホテルにでも泊まってくれば良かったんじゃない。久々の再会で、熱い夜を過ごせたかもしれないのに、馬鹿ね」
「鈴香、それ本気で言っているのか!? 俺が他の女を口説こうが、一緒に過ごそうが、抱こうが鈴香にとっては、どうでもいい事なのかよ!!」

 関係なくない……
 彼が他の女と一緒にいると考えるだけで胸が張り裂けそうになる。嫉妬で狂いそうになる。行かないでと縋りつきそうになる。
 泣いて縋って、『橘真紘』という沼にどっぷりとハマってしまえば楽になれると分かっている。
 私だけを見て、私だけの事を思って、私以外の女に心を奪われないでと、本心を曝け出したいと心が叫ぶ。でも、心の奥底で叫ぶ、もうひとつの声が一歩を踏み出す事を躊躇わせる。

『橘の心にいるのは、私じゃない』

 彼に惹かれていく心と相反する疑念。
 吉瀬さんが現れてから巣食う疑念が橘を受け入れることを拒否する。心を曝け出したら最後、取り返しのつかない事になるぞと警告を鳴らす。
 想いのまま橘を愛してしまえば、それを失い捨てられた時、私は今度こそ立ち直れない。
 もう、これ以上傷つくのは嫌だ……

「えぇ。どうでもいいわ。私が本気で貴方を好きになると思っていたの? 本当、おめでたい頭ね。周りからチヤホヤされ過ぎて、女は全て自分の思い通りになるとでも勘違いしたのかしら。貴方が私にして来た過去を考えれば、万が一にも好きになるなんて有り得ないのに」
「……本気で言っているのか? 鈴香が俺を好きになることは万が一にもないのか?」

 好きになってしまった。
 だからこそ、これ以上深みに嵌るのが怖い。心の底から『橘真紘』を愛してしまう前に手を引くべきだ。手遅れになる前に……

「万が一にも貴方を愛することはない。貴方の誘いに乗ったのも、思わせぶりな態度を取ったのも、私を騙して弄んだ貴方に対するほんの小さな意趣返しよ。それを本気にでもしたの? 女を弄んで捨てて来た貴方らしくもない。貴方への些細な復讐も済んだし、此処で一緒に暮らす意味もない。今日で最後にしましょ……」

「……それが鈴香の本心なんだな」

 橘を好きだと泣き叫ぶ心を無視し艶然と笑ってやる。

「えぇ。お子様とのお遊びは終わりよ。さ・よ・う・な・ら」
「わかった。勝手にすればいい」

 静かな部屋に響いた別れの言葉は鋭い棘となり心に突き刺さる。

「これで良かったのよ……」

 ひとり残された部屋に響いた最後の言葉が闇の中へと消えていった。
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