豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網

過去からの解放

 重厚な扉を開け、店内へと入れば見知った顔が温かな笑みで迎え入れてくれる。

「こんばんわ。鈴香さん。今夜は何にしますか?」
「そうね。あまり酔いたくないのよ。出来れば、ノンアルコールカクテルにしたいの。出来るかしら?」

 いつものカウンターの定位置へと座れば、馴染みのバーテンダーに話しかけられる。

「へぇ、珍しいね。今日はどうしたのさ? いつもは、強いカクテルばかり頼むのにさ」
「今夜は酔いたくないの。酔いたくないというか、酔っちゃダメなのよ。決戦の時だから。人と待ち合わせなの」
「……そう、わかった。ノンアルコールカクテルね。了解」

 それ以上、詮索しない(ゆう)の優しさに感謝しつつ、スマホを取り出すとメール画面を開く。数日前に送ったメール画面を見つめ、緊張で逃げ出したくなる。
 元彼と対峙する決意をした。
 あの日……、橘が看病をしてくれた日。冷蔵庫で見つけたメモを見て決心し たのだ。自分の気持ちに正直になろうと。
 格好悪くたっていい。今、行動を起こさなければ後悔する。橘と吉瀬さんの関係なんてどうだっていい。みじめだろうと、未練たらたらと罵られようと、自分の正直な気持ちを彼に伝えようと決めた。
 橘に、『愛している』と言いたい。
 もう、過去の自分には縛られない。一歩前に踏み出すために、元彼との関係に決着をつける。だから、馴染みのBARに呼び出した。
 元彼からの復縁要求は、日に日にエスカレートしている。もはや、ストーカーと化した元彼に、一人で立ち向かう無謀さも理解している。
 ただ、もう逃げたくない。
 もう、自分の気持ちから逃げないと決めたのだ。だから、過去に決着をつけ、前に進む。決意を胸に元彼を待つ。

「鈴香、待たせてごめん。まさか、誘ってくれるとは思わなくて。嬉しかったよ」

 背後からかけられた声に振り向けば、すぐそばに元彼が立っていた。
 笑顔を浮かべているが目が笑っていない。今なら分かる気持ち悪いほどの作り笑いに、背を怖気《おぞけ》が走る。恋は盲目と言うが、この笑顔を見るたびに素敵だと思っていた過去の自分は馬鹿でしかない。
 衝動的に逃げ出したくなる気持ちを誤魔化し、引き攣った笑みを浮かべ隣の席を勧め、サッと目を逸らす。相手の雰囲気に飲まれるわけにはいかない。このまま怖気づいていたら、口の上手い彼に丸め込まれてしまう。
 過去と決別して、前に進むと決めたのだ。もう、自分の気持ちを誤魔化したりしない。

「きちんと話をしたいと思っていたの。ストーカー行為と提示された写真について」
「ストーカー行為? そんな事をした覚えはない。それに写真だって、婚約話が持ち上がっている男なんてやめた方がいいって忠告のつもりだ。脅すつもりなんてなかったさ」

 似非《えせ》笑いを浮かべていた彼の表情は、見るからに剣呑さを増している。でも、ここで怯むわけにはいかない。

「じゃあ、あのメールの文面は何よ。写真をばら撒かれたくなければ、分かっているよなって、脅し以外の何ものでもないでしょ! あれが、ただの忠告だとでも言うの?」
「それこそ、ジョークだろ。相変わらず頭が固いな。そんなんじゃ、どうせ男なんて出来ないだろ。同僚か何か知らないけど、騙されてズタボロになる前に戻って来いよ。どうせ意地張っているだけだろ」
「私をズタボロにしておいて、どの口が言うのよ」

 相変わらず自分本意の物言いしか出来ない奴にイライラだけが募っていく。
 冷静になり考えれば、何故こんな奴を愛していたのか不思議でならない。この男は、付き合っていた当初から、自己中心的な考えや言動を取っていた。
 その言動を男らしいと感じていた過去の自分は、おめでたい頭をしていたとしか言いようがない。

「今夜だって、俺とヨリを戻したいから呼び出したんだろ。確かに、他の女と浮気したのは俺が悪かったよ。ただ、鈴香と離れて分かったんだ。俺には鈴香だけだって。こんなどうしようもない俺を丸ごと受け入れて甘やかしてくれるのは鈴香だけだって気づいたんだよ。今度こそ浮気なんてしない。大切にするから、戻って来いよ」

 上辺だけの甘い言葉の羅列が神経を逆撫でする。
 どこまでも身勝手な男。この男は、何も変わってはいない。いや、変わろうとも思っていないのだろう。
 目の前で項垂れる男は、昔から私のことを愛してなどいなかった。この男にとって私は、自分の思い通りになる都合のいい女でしかなかったのだ。
 心の片隅に残るキラキラとした想い出すら粉々に砕け散っていく。
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