[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
ロビーに足を踏み入れても、特に目を引くものはなかった。
床は石だったはずだが、冷たさも光も主張せず、ただ音だけを静かに吸い込む。全てが『静』の調和の中にあった。なのに、不思議とその空間は心地よい。
異次元から来たもう一人の自分が、静かな宇宙に放り出された感覚になる。
フロントで忘れ物の件を問い合わせて数分後、背の高い、清潔感のあるスーツ姿の男性が現れた。ホテルの制服を着ていない。
――マネージャーさん、かしら?
彼に案内され、従業員専用のエレベーターで10階へ向かう。扉が開いた先は、まさかの――社長室だった。
……えっ?
な、なんで社長室?
別に悪いことをしたわけではないのに、胸の奥がきゅっと縮こまる。どうして人は、肩書きや権力を持つ相手を前にすると、無意識に萎縮してしまうのだろう。
私はただ、忘れたネックレスを受け取りに来ただけなのに。
社長室のローテーブルを挟んで向かい合ったのは、九条社長だった。想像していたよりずっと若い。30代だろうか。品のある整った顔立ちで、落ち着いた雰囲気を纏っている。
父と同年代の中年男性を思い描いていた私は、思わず背筋を正した。
軽い挨拶のあと、忘れ物について確認が行われる。
そこへ先ほど案内してくれた秘書の小鳥遊さんが、紅茶とデザート、そしてベルベットの箱を運んできた。
「こちらは、夏の人気商品の桃のケーキです。どうぞ」
桃の香りが優しく鼻をくすぐる。
この部屋では、人も、物も、甘い桃でさえ、私よりずっと『正しい場所』にいる気がした。
丸ごとの桃。中にはカスタードとホイップが詰められていて、その可愛らしい佇まいに一瞬、見惚れてしまい、ゴクリと喉が鳴る。
私は受け取り用紙に記入し、身分証を添えて九条社長へ差し出した。彼は確認を終えると、小鳥遊さんにコピーを依頼する。どうやらホテルの規定で、身分証は用紙と一緒に保管するらしい。
「では、こちらをご確認ください」
差し出されたベルベットの箱を開ける。中には、あの夜に外されたネックレスが、静かに光っていた。
「はい。間違いありません」
小さな輝きを見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。彫刻のような指先が、首筋に触れた記憶が不意に蘇った。首の後ろが、かすかに火照る。
お礼を述べ、立ち上がろうとした私に、穏やかな声がかかった。
「よろしければ、一緒に召し上がりませんか? 私も、ようやく一息つける時間でして」
……ど、どうしよう。
その柔らかな笑顔と声音に、思わず言葉を選ぶ。こちらが身構えるより先に、距離を詰められている気がした。
『女性の扱いに慣れている』
そんな言葉が頭に浮かぶ。ただ、それを隠そうともしないし、誇示もしない。それが彼という人物なのだろう。
「あ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
ああぁぁ、小心者の私。
断れなかった……
残念ながら緊張しすぎて、桃のケーキの味はほとんど覚えていない。ケーキを一口食べては紅茶で流し込む。その繰り返しに、ただひたすら専念した。
九条社長は丁寧で、感じもいい。
それなのに。
どこか、見透かされているような視線が、妙に落ち着かなかった。
床は石だったはずだが、冷たさも光も主張せず、ただ音だけを静かに吸い込む。全てが『静』の調和の中にあった。なのに、不思議とその空間は心地よい。
異次元から来たもう一人の自分が、静かな宇宙に放り出された感覚になる。
フロントで忘れ物の件を問い合わせて数分後、背の高い、清潔感のあるスーツ姿の男性が現れた。ホテルの制服を着ていない。
――マネージャーさん、かしら?
彼に案内され、従業員専用のエレベーターで10階へ向かう。扉が開いた先は、まさかの――社長室だった。
……えっ?
な、なんで社長室?
別に悪いことをしたわけではないのに、胸の奥がきゅっと縮こまる。どうして人は、肩書きや権力を持つ相手を前にすると、無意識に萎縮してしまうのだろう。
私はただ、忘れたネックレスを受け取りに来ただけなのに。
社長室のローテーブルを挟んで向かい合ったのは、九条社長だった。想像していたよりずっと若い。30代だろうか。品のある整った顔立ちで、落ち着いた雰囲気を纏っている。
父と同年代の中年男性を思い描いていた私は、思わず背筋を正した。
軽い挨拶のあと、忘れ物について確認が行われる。
そこへ先ほど案内してくれた秘書の小鳥遊さんが、紅茶とデザート、そしてベルベットの箱を運んできた。
「こちらは、夏の人気商品の桃のケーキです。どうぞ」
桃の香りが優しく鼻をくすぐる。
この部屋では、人も、物も、甘い桃でさえ、私よりずっと『正しい場所』にいる気がした。
丸ごとの桃。中にはカスタードとホイップが詰められていて、その可愛らしい佇まいに一瞬、見惚れてしまい、ゴクリと喉が鳴る。
私は受け取り用紙に記入し、身分証を添えて九条社長へ差し出した。彼は確認を終えると、小鳥遊さんにコピーを依頼する。どうやらホテルの規定で、身分証は用紙と一緒に保管するらしい。
「では、こちらをご確認ください」
差し出されたベルベットの箱を開ける。中には、あの夜に外されたネックレスが、静かに光っていた。
「はい。間違いありません」
小さな輝きを見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。彫刻のような指先が、首筋に触れた記憶が不意に蘇った。首の後ろが、かすかに火照る。
お礼を述べ、立ち上がろうとした私に、穏やかな声がかかった。
「よろしければ、一緒に召し上がりませんか? 私も、ようやく一息つける時間でして」
……ど、どうしよう。
その柔らかな笑顔と声音に、思わず言葉を選ぶ。こちらが身構えるより先に、距離を詰められている気がした。
『女性の扱いに慣れている』
そんな言葉が頭に浮かぶ。ただ、それを隠そうともしないし、誇示もしない。それが彼という人物なのだろう。
「あ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
ああぁぁ、小心者の私。
断れなかった……
残念ながら緊張しすぎて、桃のケーキの味はほとんど覚えていない。ケーキを一口食べては紅茶で流し込む。その繰り返しに、ただひたすら専念した。
九条社長は丁寧で、感じもいい。
それなのに。
どこか、見透かされているような視線が、妙に落ち着かなかった。