[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
彼の視線が、ふと私の指先の傷に留まり、表情が変わった。それまでの穏やかさが静かに消え、眉間に深い皺が刻まれる。それは怒りではなく、確かめるような視線だった。

「失礼ですが、その左薬指は当ホテルで負傷されたものですか?」

言葉は丁寧で、声も低く、荒れていない。それなのに、背筋に冷たいものがツーッと走る。思わず右手で指を隠した。

あの夜についた傷跡はまだ消えず、完治には1ヶ月ほどかかる。整形外科の近衛先生も、そう言っていた。

「い、いいえ。違います……。あの、ケーキと紅茶……美味しかったです。ごちそうさまでした」



タイミングよくドアが開き、小鳥遊さんが身分証を返してくれる。

私は軽く会釈して社長室を後にした。忘れ物を受け取っただけなのに、見透かされた気がして妙に疲れた。

でも無事にネックレスも戻ってきたし、正社員にもなれた。

伊集院先生にすべて任せた今、ようやく一区切りついた気がする。

これで心置きなく仕事に集中できる。伊乃国屋コーポレーションのバイヤー部は、毎日が戦場のようだ。

けれどその忙しさこそが、私を支えてくれている気もした。



翌週の朝。主任たちは会議室で、上層部とミーティング中。残った私は、忘れられた資料ファイルを抱えて第3会議室へ向かう。

初めて入る上層階。

社長室と副社長室、秘書室が並ぶフロアの空気はどこか張りつめている。柔らかい絨毯に足を取られそうになりながら、私はそっとドアをノックした。



会議の邪魔にならぬように、胸元のファイルセットの束を左手で押さえながら、最初のセットを上座の方のテーブルに置いた。

「ありがとう」

耳に響く、あの夜と同じ落ち着いた低音。

それに続く、ほのかなムスクの香り。

えっ……まさか⁉︎

顔を上げる勇気はない。震える指でファイルを配り終え、できるだけ存在感を消し、静かに頭を下げてドアノブに手をかける。

「小宮さん、ありがとう」
「助かったわ、小宮ちゃん」

部長と主任の声を背に、そっとドアを閉める。背中をドアに預けた瞬間、心臓の音が耳を打った。



急いでバイヤー部に戻り、コンピューターで役員一覧を開く。

契約社員で長居はしない予定だったこともあり、初日から忙しくて会社概要を詳しく読んでいなかったのだ。

画面に映った写真を見た瞬間、心臓が大きくドクンと跳ね、息が止まった。

整えられた髪は、今ではきっちりとしたオールバック。けれどあの夜は、無造作に風を受けたままの髪だった。その瞳だけが、変わらずに私を見ている。

指先が冷えるように震えた。

どうしようもなく喉が渇き、持参の小さな水筒をゴクゴクと一気に飲み干す。

彼の名前は――
西園寺京(さいおんじ・きょう)
伊乃国屋コーポレーションの社長だった。
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