[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜

あれから、いくつ夜を越えただろうか。何事もなかったように、淡々と日々を繰り返している。ただ一つを除いて。

まさかこの歳にもなって、数を数えるような感情に囚われるとは思っていなかった。

『名無し』にも何度か足を運んだが、彼女に再び会うことはなかった。マスターの話では、あの日が最初で最後だったらしい。



これまでも、一夜限りの関係やセフレはあった。どれも互いに割り切った大人の遊び。トラブルもなく、後腐れもない。

それが俺の流儀だった。

それなのに、あの夜の彼女だけが、頭から離れない。

泣き出しそうに唇を噛んでいた横顔。
耳に残る、柔らかく落ち着いた声。
真面目さの奥に潜んだ、甘い吐息の温度。
微かに届く、優しい石鹸の香り。

……思い出すたび、胸の奥がざわつく。



置いていかれたホテル代にも、戸惑いを覚えた。礼儀正しさと距離感、どこまでも彼女らしかった。

初めは、悠士の件で気が滅入っていたからだと思った。だが一週間経っても、彼女の顔は消えなかった。



仁からも何の連絡もなく、諦めかけた週末。
ようやく、嬉しい知らせが届いた。携帯にメッセージが入り、急遽マンション10階のバーVIPで会うことに。

ここは九条不動産所有、慶智の王子たちとその家族しか入れないバーだった。かつて七人いた仲間たちも、今はそれぞれの道を歩いている。残っているのは、涼介夫婦、弟の(みやび)夫婦、妹の(あおい)と彰人、そして俺だけ。もうこの場所に、あの頃の賑やかさはない。



久しぶりのバーVIP。

琥珀色の照明が、グラスの底で揺れていた。
俺はビールを、車で帰る仁はトニックウォーターを頼んだ。グラスを傾けながら、仁が静かに切り出す。

今日、彼女がホテルに忘れ物を取りに来たらしい。秘書の小鳥遊が彼女を社長室へ案内し、紅茶とケーキを出して世間話をしたという。

「彼女は小宮真帆子さん。住所と携帯の番号も、わかるけど」



仁が差し出した紙を、俺はしばらく見つめた。そして、名前だけを心に刻み、紙を破り捨てた。他人のプライバシーを覗くような真似に、妙な罪悪感が残った。一夜限りの相手に踏み込むほど、俺は無節操ではない。

それに悠士の不祥事のこともある。『情報屋の烏丸』である悠士の弟・大和にも頼めず、仁にもこれ以上迷惑をかける気にもなれない。

彼女の名を知った今、これ以上を望むなら……探偵でも雇うしかないな。

自嘲気味に、ひと口ビールをあおった。泡が喉に落ちていくたび、どうしようもない空虚さが広がっていく。

それでも、あの夜の温度だけは、まだ消えてくれない。
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