[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
きらびやかなミッドタウンから裏路地に入ると、雑居ビルが肩を寄せ合っていた。行くあてもなく、ただ呆然と歩く。昼間の喧噪が嘘のように、人影はまばら。コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが、闇に吸い込まれていく。
たった一本、道を外れただけなのに、華やかさは跡形もない。無機質な壁と、入り組んだ細い道が、街の『裏側』へと私を導く。
『おまえは地味』
『真面目すぎてつまらない』
『堅物三十路女』
これらの言葉が、頭の内側に擦り傷みたいに残っている。きっと私は、明るい表通りより、こういうひっそりとした裏路地の方が、似合うんだろう。
ただ、忘れたかった。この5年間を、この胸の痛みを。
どうやって?
答えは見つからないまま、私は暗がりを彷徨った。
とある雑居ビルの入口の窪み。チカチカと薄青白く点る裸電球が、ジジ、ジジ……と頼りない音を立てていた。黒い木札のOPEN。入口に扉はない。ぽっかりと口を開けた闇に、狭い廊下が奥へ伸びている。
ブラックホールに吸い込まれるように薄暗い奥へ進むと、この場に合わない重厚なダークマホガニーの扉。脇に、さっきと同じOPENの札。店名は、ない。
思わず取っ手に触れ、扉を押した。
中はこじんまりとして落ち着いた空間。窓はなく、オレンジ色の穏やかな間接照明とキャンドルの炎だけが揺れている。ここで読書をするには、少し暗すぎる。
カウンターも椅子も、艶のあるダークマホガニーと黒のレザー。暗くて不気味な廊下とは正反対の、静かな温度。
もしかして、
会員制?
場違い?
慌てて踵を返そうとした瞬間、柔らかな声が耳に届いた。
「こんばんは。どうぞこちらへ」
白髪混じりのダンディなバーテンダーさんが、奥から四番目の席に手を差し向け、目の前のキャンドルに火を灯す。白シャツ、蝶ネクタイ、黒のベスト。物腰に無駄がなくて、その笑みだけで少し落ち着けた。
客は私と、ドア寄りの二番に座る男性の二人だけ。カウンターの中には年配の彼と、30代くらいの若い男性。若い方は、もう一人の客の相手をしている。
高めの椅子に腰を落とす。居酒屋と違って、ここはうるさくない。人混みが苦手な私には、それだけで救いに思えた。
今はただ、お酒で彼との記憶を洗い流したい。
さて、何を飲もう。普段ほとんど飲まないし、強くもない。友人の藤森恵子《ふじもり・けいこ》が『この三種を勧める男は警戒!』と、口を酸っぱくして言っていた――ロングアイランド・アイスティー、ピンク・レディ、モスコミュール。どれも地雷だという。
じゃあ、何ならいいの?
「お決まりですか? ご希望がございましたら何なりと」
「あ、あの……モスコミュールか、ピンク・レディか、ロングアイランド・アイスティー……迷ってて」
バーテンダーさんが、少しだけ目を細めて提案する。
「モヒートはご存知ですか。ホワイトラムにライムとミントと砂糖を潰して、氷と炭酸で。さっぱりして飲みやすいですよ」
お願いします、という意味で、こくりと頷いた。注文を終え、ふう、と小さく息を吐く。
たった一本、道を外れただけなのに、華やかさは跡形もない。無機質な壁と、入り組んだ細い道が、街の『裏側』へと私を導く。
『おまえは地味』
『真面目すぎてつまらない』
『堅物三十路女』
これらの言葉が、頭の内側に擦り傷みたいに残っている。きっと私は、明るい表通りより、こういうひっそりとした裏路地の方が、似合うんだろう。
ただ、忘れたかった。この5年間を、この胸の痛みを。
どうやって?
答えは見つからないまま、私は暗がりを彷徨った。
とある雑居ビルの入口の窪み。チカチカと薄青白く点る裸電球が、ジジ、ジジ……と頼りない音を立てていた。黒い木札のOPEN。入口に扉はない。ぽっかりと口を開けた闇に、狭い廊下が奥へ伸びている。
ブラックホールに吸い込まれるように薄暗い奥へ進むと、この場に合わない重厚なダークマホガニーの扉。脇に、さっきと同じOPENの札。店名は、ない。
思わず取っ手に触れ、扉を押した。
中はこじんまりとして落ち着いた空間。窓はなく、オレンジ色の穏やかな間接照明とキャンドルの炎だけが揺れている。ここで読書をするには、少し暗すぎる。
カウンターも椅子も、艶のあるダークマホガニーと黒のレザー。暗くて不気味な廊下とは正反対の、静かな温度。
もしかして、
会員制?
場違い?
慌てて踵を返そうとした瞬間、柔らかな声が耳に届いた。
「こんばんは。どうぞこちらへ」
白髪混じりのダンディなバーテンダーさんが、奥から四番目の席に手を差し向け、目の前のキャンドルに火を灯す。白シャツ、蝶ネクタイ、黒のベスト。物腰に無駄がなくて、その笑みだけで少し落ち着けた。
客は私と、ドア寄りの二番に座る男性の二人だけ。カウンターの中には年配の彼と、30代くらいの若い男性。若い方は、もう一人の客の相手をしている。
高めの椅子に腰を落とす。居酒屋と違って、ここはうるさくない。人混みが苦手な私には、それだけで救いに思えた。
今はただ、お酒で彼との記憶を洗い流したい。
さて、何を飲もう。普段ほとんど飲まないし、強くもない。友人の藤森恵子《ふじもり・けいこ》が『この三種を勧める男は警戒!』と、口を酸っぱくして言っていた――ロングアイランド・アイスティー、ピンク・レディ、モスコミュール。どれも地雷だという。
じゃあ、何ならいいの?
「お決まりですか? ご希望がございましたら何なりと」
「あ、あの……モスコミュールか、ピンク・レディか、ロングアイランド・アイスティー……迷ってて」
バーテンダーさんが、少しだけ目を細めて提案する。
「モヒートはご存知ですか。ホワイトラムにライムとミントと砂糖を潰して、氷と炭酸で。さっぱりして飲みやすいですよ」
お願いします、という意味で、こくりと頷いた。注文を終え、ふう、と小さく息を吐く。