[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
研二との婚約破棄から、すでに1ヶ月が過ぎた。季節は秋の終わり。11月に入ると、朝晩の寒暖差がいっそう身に染みる。



最近、妙に疲れやすくて眠い。まるで冬眠前の熊みたいだ。理由は思い当たらないのに、体だけが先に音を上げている。怒涛の1ヶ月がようやく落ち着き、気が緩んだのかもしれない。

でも、そんな平穏は長く続かなかった。



ある日の終業間際、内線が鳴った。片付けの手を止めて受話器を取ると、社長秘書の本間さんの声が響く。

「帰り支度のあと、社長室までお願いします」



更衣室で着替えを済ませ、エレベーター前に立つ。ボタンを押す指先が、かすかに震えていた。

なぜ私が、社長室に……?
仕事で何か大きなミスをした?
それとも――あの一夜のこと?

ううん、彼は気づいていないはず。



彼とはその後、二度ほど社内で顔を合わせただけだった。同じ空間にいても、言葉を交わすことすらなかった。

そこで知ったのだ。あの時の彼が、この会社の社長で、有名な御曹司だったことを。

だ、大丈夫。
絶対バレてないよ……ね?



エレベーターのドアに映る自分の姿は、あの夜とはまるで違う。最低限のメイク、一つに束ねた髪。黒縁メガネにプチプラの通勤服。ただの地味な事務員だ。

本当は、髪をほどきメガネを外すべきなのかもしれない。けれど、あえてそのままにした。彼に『あの夜の私』だと気づかれたくなかったから。



彼と私は、きっと釣り合わない。どんなに着飾っても、ホテル9(クー)に集う洗練された女性たちには敵わない。

もし彼が、私があの一夜の相手だったと知ったら、幻滅するだろう。だからあの夜は、美しい記憶のまま胸にしまっておきたい。

……それくらいなら、許されるよね?

自分にそう言い聞かせるように、胸の奥でそっと呟いた。



社長室の重厚なドアの前で、足がすくむ。
あの人の顔も思い浮かんで、ノックできない。

疲れのせいか、さらに体は鉛のように重く、胸の奥から胃にかけて、じわりと不快感が広がる。

きっと緊張のせいだ。
――早く終わらせて帰りたい。

そう願いながら何度もノックをためらっていたその時、ドアが不意に開いた。秘書の本間さんだった。ぶつかりそうになった私に、彼は目を細めて優しく微笑んだ。

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