[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
診察室を出たあとの記憶が、すっぽり抜け落ちている。

どの道を歩いたのかも思い出せない。ただ、次に意識がはっきりしたとき、私はもう自宅の玄関に立っていた。



中に入りドアを閉め鍵をかけた。

この時、すでに精神的に限界だったと思う。昨日は彼から浴びせられた冷たい言葉に、心が折れた。今は……吐き気がこみ上げ、トイレに駆け込んだ。



吐き気が落ち着き、力なく冷たい床に座り込む。

何でこんなことばかり……昨日の今日で。
ああ、これが悪阻なのか。頭ではわかっていても、体が先に答えを出してしまった。

ウイルス性の風邪なんかじゃない。妊娠という現実が、体の中で確かに動き始めている。



ベッドに腰を下ろし、診断書の入った封筒を見つめた。

そこには出産を選ぶ場合と、そうでない場合。どちらを選んでも、覚悟を求められる手続きが並んでいる。

目に留まったのは、手術同意書の『パートナー署名』の欄。



……無理だよ。
あの人に、この紙を渡すなんて。

昨日のあの冷たい声が、頭の奥で響く。

『その金は、もう君のものだ。二度と、俺の前に現れるな』

そんなふうに言われた私が、どうして
『サインしてください』なんて言えるの?



クッションを抱きしめ、声を押し殺して泣いた。

涙を拭う手が、自然とお腹に触れる。まだ何の変化もないけれど、この中に、小さな命がある。あの夜の、一瞬のぬくもりから生まれた命が。

でも……私はどうすればいいの?



一人で育てる覚悟なんて、まだできてない。
 
両親にどう話せばいい?
仕事は?
生活は?

考えがぐるぐる回るだけで、答えが出ない。時計の針の音だけが、部屋に響いていた。



ああ……誰かに相談したい。

高橋主任?
――だめ。
主任の旦那さんは、彼の友人だ。話せるわけがない。



ふと、頭に浮かんだのは恵子の顔だった。
携帯を手に取り、指が自然に動く。

『大事な相談があるんだけど。明日の金曜日、うちに来れない?』



送信ボタンを押したあと、フーッと長く息を吐いた。

携帯を伏せ、クッションを抱えたまま、しばらく動けなかった。時計を見る気にもなれない。時間だけが、無遠慮に過ぎていく。

一人じゃない。

そう思えたはずなのに、漠然とした不安に包まれたままだった。
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