[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
悠士との通話を終えても、どうしても納得がいかなかった。電源を落としたパソコンの黒い画面を、意味もなく見つめる。
秘書の本間が入ってきてスケジュールを報告し、静かに去った。
また、ひとりになる。
黒い液晶に映る自分の顔は、どこか虚ろだった。
その時、ドア越しに声が響く。
「社長、バイヤー部の小宮さんです。では、私はこれで失礼いたします」
現れたのは、小宮真帆子。
そうだ。悠士と電話する前、俺は彼女を呼ぶよう指示していた。目的は、彼女との距離を縮めるため。
だが、悠士とのやり取りが、まだ気持ちを揺らしていた。
彼女が直立したまま動かない。俺は応接セットを指し、座るよう伝える。
静かに腰を下ろしたのを見て、デスクの引き出しから白い封筒を取り出した。
「終業後に時間を取らせてしまって、申し訳ない。君に渡したいものがあって」
差し出すと、彼女は俯いたまま受け取った。
中身を確認するよう促すと、ゆっくり顔を上げ、視線がぶつかる。
あの夜、潤んだ瞳で見上げてきたときと、同じ目。
髪を束ね、黒縁メガネをかけていても、あの夜の面影がはっきりと重なった。
理性より先に、身体が反応する。熱を帯びる芯を、どうすることもできないまま。
あの夜、彼女は元婚約者との苦しい関係を語っていた。
『行為が怖くて、苦痛で……』
『不感症だと罵られた』
その言葉が、俺の保護欲を強く刺激した。
彼女が震えながらも俺を受け入れた夜。その感触が、今も体に焼き付いて離れない。
まるでパズルの最後の一片が嵌まるようだった。
その瞬間、俺の中に、言葉にする必要のない確信が生まれた。
比べるまでもない――
そう判断している自分に、気づいていなかっただけだ。
彼女が、あの夜の男が俺だと知ったとき、どんな顔を見せるのか。
そんな想像がよぎり、思わず舌を湿らせた。
封筒を開いた彼女の手が、かすかに震えるのがわかる。
中には、便箋の下に隠された1万円札と5千円札。あの朝、彼女がホテルの部屋に置いていった『別れの証』だ。
俺は冷静を装い、低く問う。
「その様子だと……俺が、あの夜の男だって気づかなかったんだろう?」
しばしの沈黙。
そして、かすれるような声。
「……わかってました。社長だと……」
頭が一瞬、空白になる。
そして、その空白を埋めるように、過去の記憶が整然と並び始めた。
これまで近づいてきた女たちの視線。言葉。距離の詰め方。
――ああ、そういうことか。
「……フッ。やっぱり、そういう目で見てたのか」
自嘲が漏れる。信じた自分が馬鹿だった。
「俺が社長だとわかってて、近づいてきたんだろ? ……見事だな。すっかり騙されたよ」
声は自然と低く、温度を失っていく。
怯える彼女を、感情を遮断した目で見下ろした。もう、その表情に意味を与える必要はない。
何か言いかけて、結局声にならなかった彼女。
その沈黙が、かえって結論を補強する。
「……その金は、君のものだ。二度と、俺の前に現れるな」
青ざめた顔で唇を噛み、彼女は深く頭を下げて部屋を出ていった。
窓の外には、いつもと同じ都心の夜が広がっていた。
紺色の空に、ビルの灯りが点々と散らばっているだけの、見慣れた景色。
仕事終わりに何度も眺めてきたはずの光景だ。それなのに今日は、なぜか胸の奥がざわつく。
静かで、整っていて、何ひとつ変わっていないはずなのに、この部屋だけが、ひどく冷えているように感じられた。
デスクの上には、開けられたままの白い封筒。
彼女が残していった金と、言葉にならなかった沈黙。
怒りだと信じ込もうとした感情の底で、別の何かが、鈍く疼いている。
だが、その正体を確かめる気にはなれなかった。
残された社長室に、俺の感情だけが、行き場を失ったまま沈殿していた。
秘書の本間が入ってきてスケジュールを報告し、静かに去った。
また、ひとりになる。
黒い液晶に映る自分の顔は、どこか虚ろだった。
その時、ドア越しに声が響く。
「社長、バイヤー部の小宮さんです。では、私はこれで失礼いたします」
現れたのは、小宮真帆子。
そうだ。悠士と電話する前、俺は彼女を呼ぶよう指示していた。目的は、彼女との距離を縮めるため。
だが、悠士とのやり取りが、まだ気持ちを揺らしていた。
彼女が直立したまま動かない。俺は応接セットを指し、座るよう伝える。
静かに腰を下ろしたのを見て、デスクの引き出しから白い封筒を取り出した。
「終業後に時間を取らせてしまって、申し訳ない。君に渡したいものがあって」
差し出すと、彼女は俯いたまま受け取った。
中身を確認するよう促すと、ゆっくり顔を上げ、視線がぶつかる。
あの夜、潤んだ瞳で見上げてきたときと、同じ目。
髪を束ね、黒縁メガネをかけていても、あの夜の面影がはっきりと重なった。
理性より先に、身体が反応する。熱を帯びる芯を、どうすることもできないまま。
あの夜、彼女は元婚約者との苦しい関係を語っていた。
『行為が怖くて、苦痛で……』
『不感症だと罵られた』
その言葉が、俺の保護欲を強く刺激した。
彼女が震えながらも俺を受け入れた夜。その感触が、今も体に焼き付いて離れない。
まるでパズルの最後の一片が嵌まるようだった。
その瞬間、俺の中に、言葉にする必要のない確信が生まれた。
比べるまでもない――
そう判断している自分に、気づいていなかっただけだ。
彼女が、あの夜の男が俺だと知ったとき、どんな顔を見せるのか。
そんな想像がよぎり、思わず舌を湿らせた。
封筒を開いた彼女の手が、かすかに震えるのがわかる。
中には、便箋の下に隠された1万円札と5千円札。あの朝、彼女がホテルの部屋に置いていった『別れの証』だ。
俺は冷静を装い、低く問う。
「その様子だと……俺が、あの夜の男だって気づかなかったんだろう?」
しばしの沈黙。
そして、かすれるような声。
「……わかってました。社長だと……」
頭が一瞬、空白になる。
そして、その空白を埋めるように、過去の記憶が整然と並び始めた。
これまで近づいてきた女たちの視線。言葉。距離の詰め方。
――ああ、そういうことか。
「……フッ。やっぱり、そういう目で見てたのか」
自嘲が漏れる。信じた自分が馬鹿だった。
「俺が社長だとわかってて、近づいてきたんだろ? ……見事だな。すっかり騙されたよ」
声は自然と低く、温度を失っていく。
怯える彼女を、感情を遮断した目で見下ろした。もう、その表情に意味を与える必要はない。
何か言いかけて、結局声にならなかった彼女。
その沈黙が、かえって結論を補強する。
「……その金は、君のものだ。二度と、俺の前に現れるな」
青ざめた顔で唇を噛み、彼女は深く頭を下げて部屋を出ていった。
窓の外には、いつもと同じ都心の夜が広がっていた。
紺色の空に、ビルの灯りが点々と散らばっているだけの、見慣れた景色。
仕事終わりに何度も眺めてきたはずの光景だ。それなのに今日は、なぜか胸の奥がざわつく。
静かで、整っていて、何ひとつ変わっていないはずなのに、この部屋だけが、ひどく冷えているように感じられた。
デスクの上には、開けられたままの白い封筒。
彼女が残していった金と、言葉にならなかった沈黙。
怒りだと信じ込もうとした感情の底で、別の何かが、鈍く疼いている。
だが、その正体を確かめる気にはなれなかった。
残された社長室に、俺の感情だけが、行き場を失ったまま沈殿していた。