[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
「実は……退職を考えています。正社員に推薦していただいたのに、本当に申し訳ありません。これは私の個人的な事情です」
「えっ? どうして? 会社に不満があるの? まさか私、何かした?」
初めて見る主任の慌てた表情に、胸が締めつけられる。
主任は契約社員時代から、ずっと私を支えてくれた。会社にも、彼女にも、不満なんて一つもない。
首を振りながら、慌てて訂正する。
「違います! 会社にも主任にも感謝しかありません……主任、研二と婚約破棄した日のこと、覚えていますか?
「もちろん。カフェBon Bonでいきなり破棄されたって話。まさか、あのバカ男に何かされたの?」
「いいえ。研二とは、あの日から一度も会っていません。ただ主任には、あの日のことで、まだ話していないことがあって……」
再び、深く息を吸う。喉が異常に渇く。胃の奥が少しむかついて、そっとジャムサンドを一口かじった。指が微かに震えているのがわかる。ほんのり甘い味が、かろうじて心を落ち着かせてくれた。
「主任たちに軽蔑されるのが怖くて……
ずっと言えなかったことがあります。
実は――」
言葉の続きが、喉の奥で詰まる。真実を告げるまで、もうあと一歩だった。
もう一度、呼吸をして、ジャムサンドを一口。
今、話さなければ。
次の瞬間、雪崩のように、言葉が一気にこぼれた。
「あ、あの夜、私はある男性と……一夜を過ごしてしまいました」
主任の手が止まる。紅茶のカップが小さく音を立てた。けれど彼女は、何も言わず、続きを待ってくれた。
「出会った夜は、お互いのことを何も知らずに……」
「その人とは、今も?」
「いいえ。再会はしました。でも誤解が生まれて、彼に嫌われました」
主任は、しばらく黙った。その沈黙が、私を責めるためではないとわかって、余計に心苦しくなる。
そして静かに、しかしはっきりと聞いてきた。
「小宮ちゃん……妊娠してるの?」
喉がゴクリと鳴った気がする。
目を瞑り、私は黙ってうなずいた。
「その人、赤ちゃんのこと、知ってる?」
「いいえ。知られたくもないんです」
「なんで? 本来なら責任を……」
彼の冷たい言葉と、あのときの視線が頭をよぎる。
言えるわけない。
知られちゃいけない。
主任は、途中で言葉を飲み込んだ。
きっと、私の気持ちを察してくれたのだろう。
しばらく、沈黙が重く流れる。
それを消すかのように、主任がゆっくり口を開いた。
「その男性……もしかして、私も知ってる人?」
思いもよらぬ問いに、目を見開いたまま、しばらく固まってしまった。
「……す、すみません。何も言えません」
そして私は、深く頭を下げる。これが、今の私にできる精一杯だった。
主任は、静かにため息をつき、やさしく微笑んだ。
「わかった。今はこれ以上は聞かない。でもね、小宮ちゃんと赤ちゃんが心配なの。実家に戻るつもりは?」
「戻れません。九州の田舎で、婚約破棄された娘がシングルマザーだなんて……噂になります。それに、両親にもまだ何も……」
主任は、少し考え込むように視線を落とし、それから小さく首を傾げた。
「もし今のままリモートで働けるなら、辞めなくてもいいんじゃない?」
「ごめんなさい。それでも、もうここにはいられません。主任にも、これ以上迷惑はかけられません」
しばらくの沈黙のあと、主任は小さくうなずいた。頭のいい彼女は、『もうここにはいられない』という私の言葉だけで、何かを察したのかもしれない。
「どんな理由でそう決めたのかは聞かない。でもね、小宮ちゃん……私はあなたを妹みたいに思ってるの。何かあったら、いつでも頼って。私は、あなたの味方だから」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。涙が、静かにこぼれ落ちた。この人が主任で、本当によかった。私は、何度も何度も、頭を下げた。
店を出るころには、夜の空気がすっかり冷えていた。
それでも、胸の奥には、ほんの小さな灯りがともっていた。
「えっ? どうして? 会社に不満があるの? まさか私、何かした?」
初めて見る主任の慌てた表情に、胸が締めつけられる。
主任は契約社員時代から、ずっと私を支えてくれた。会社にも、彼女にも、不満なんて一つもない。
首を振りながら、慌てて訂正する。
「違います! 会社にも主任にも感謝しかありません……主任、研二と婚約破棄した日のこと、覚えていますか?
「もちろん。カフェBon Bonでいきなり破棄されたって話。まさか、あのバカ男に何かされたの?」
「いいえ。研二とは、あの日から一度も会っていません。ただ主任には、あの日のことで、まだ話していないことがあって……」
再び、深く息を吸う。喉が異常に渇く。胃の奥が少しむかついて、そっとジャムサンドを一口かじった。指が微かに震えているのがわかる。ほんのり甘い味が、かろうじて心を落ち着かせてくれた。
「主任たちに軽蔑されるのが怖くて……
ずっと言えなかったことがあります。
実は――」
言葉の続きが、喉の奥で詰まる。真実を告げるまで、もうあと一歩だった。
もう一度、呼吸をして、ジャムサンドを一口。
今、話さなければ。
次の瞬間、雪崩のように、言葉が一気にこぼれた。
「あ、あの夜、私はある男性と……一夜を過ごしてしまいました」
主任の手が止まる。紅茶のカップが小さく音を立てた。けれど彼女は、何も言わず、続きを待ってくれた。
「出会った夜は、お互いのことを何も知らずに……」
「その人とは、今も?」
「いいえ。再会はしました。でも誤解が生まれて、彼に嫌われました」
主任は、しばらく黙った。その沈黙が、私を責めるためではないとわかって、余計に心苦しくなる。
そして静かに、しかしはっきりと聞いてきた。
「小宮ちゃん……妊娠してるの?」
喉がゴクリと鳴った気がする。
目を瞑り、私は黙ってうなずいた。
「その人、赤ちゃんのこと、知ってる?」
「いいえ。知られたくもないんです」
「なんで? 本来なら責任を……」
彼の冷たい言葉と、あのときの視線が頭をよぎる。
言えるわけない。
知られちゃいけない。
主任は、途中で言葉を飲み込んだ。
きっと、私の気持ちを察してくれたのだろう。
しばらく、沈黙が重く流れる。
それを消すかのように、主任がゆっくり口を開いた。
「その男性……もしかして、私も知ってる人?」
思いもよらぬ問いに、目を見開いたまま、しばらく固まってしまった。
「……す、すみません。何も言えません」
そして私は、深く頭を下げる。これが、今の私にできる精一杯だった。
主任は、静かにため息をつき、やさしく微笑んだ。
「わかった。今はこれ以上は聞かない。でもね、小宮ちゃんと赤ちゃんが心配なの。実家に戻るつもりは?」
「戻れません。九州の田舎で、婚約破棄された娘がシングルマザーだなんて……噂になります。それに、両親にもまだ何も……」
主任は、少し考え込むように視線を落とし、それから小さく首を傾げた。
「もし今のままリモートで働けるなら、辞めなくてもいいんじゃない?」
「ごめんなさい。それでも、もうここにはいられません。主任にも、これ以上迷惑はかけられません」
しばらくの沈黙のあと、主任は小さくうなずいた。頭のいい彼女は、『もうここにはいられない』という私の言葉だけで、何かを察したのかもしれない。
「どんな理由でそう決めたのかは聞かない。でもね、小宮ちゃん……私はあなたを妹みたいに思ってるの。何かあったら、いつでも頼って。私は、あなたの味方だから」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。涙が、静かにこぼれ落ちた。この人が主任で、本当によかった。私は、何度も何度も、頭を下げた。
店を出るころには、夜の空気がすっかり冷えていた。
それでも、胸の奥には、ほんの小さな灯りがともっていた。