[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
あくる日。
少し早めにアパートを出た。人混みを避けるため。そして、溜まっている仕事を少しでも片づけるために。

今朝は悪阻も落ち着き、途中下車せずに会社まで来られたのは久しぶりだった。昨日休んだぶん、きっと仕事は山積みになっているだろう――そう思いながら、7階のバイヤー部のドアを開ける。

 

誰もいない朝の部屋。静寂なこの空間が、身を引き締めた。

パソコンを立ち上げ、共同ファイルを開く。

……あれ?

八件あったはずの仕事が、二件に減っている。おかしいと思いながら社内メールを確認すると、主任からのメッセージが届いていた。

『みんなで手分けして片づけたから、無理せずゆっくり来てね』

体調を気遣ってくれているのは分かる。
でも、どこか胸の奥が、ちくりと痛んだ。

もしかして、私の転職先が決まったことを、主任はなんとなく感じたのかもしれない。
私がいなくても困らないように、他の社員に引き継ぎを始めたのだろうか。

急ぎでもない仕事まで片づけられていて、
『もう必要とされていないのかも』と思ってしまうのは、きっと心が弱っているから。

それでもふと、主任が来る前に退職届を出してしまおうか、と頭をよぎった。

でもこれで、ハッキリした。引き留められることは、まずないだろう。だから、罪悪感もなく、ここを去ることができる。

 

無意味に時間が過ぎ、始業時間が近づくにつれ、静かなオフィスに人の気配が満ちていく。空気が動き出し、私は自分の決意を確かめるように、深く息を吸い込んだ。

 

昼休み。

主任と一緒になったタイミングで、転職先が決まり、退職する旨を伝えた。主任の表情に、一瞬だけ影が落ちる。

「そう……決まったのね。これだけは覚えておいて。いつでも小宮ちゃんの味方だから。会社を離れても、頼ってほしいの」

その言葉に、目頭が熱くなり、喉が詰まる。

契約社員の頃から、主任は仕事も人生も、私に根気よく向き合ってくれた人。研二のことを叱ってくれたこともあった。大好きで、憧れていた女性。だからこそ、別れがつらい。けれど彼女も、あの人と繋がる世界の一部。

そう思えば、この退職という選択は、きっと間違っていないはず。

 

午後三時。

周囲がコーヒーブレイクに向かう中、退職届を手に、主任の机へ歩く。私に気づいた主任は、どこか寂しげに微笑んだ。

まるで、これから起こることを知っているかのように。

退職届を手渡した、その瞬間。

内線が鳴る。

主任が受話器を取ると、表情が変わった。
眉間に皺を寄せ、声を潜めて何かを話している。

仕事のトラブルだろうか――
そう思いながら自分のデスクに戻ろうとした、その矢先。

「小宮ちゃん」

名前を呼ばれて、足が止まる。

振り向いた先の主任の目は、どこか悲しげだった。

「……申し訳ないけど、社長室に向かって」

その言葉に、息をすることさえ忘れた。

一気に胃が冷たくなり、鼓動だけが、やけに大きく響いている気がした。











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