[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
久しぶりに上がった、社長室のある10階。三度目になるこのフロアは、柔らかな絨毯のせいで、いつも足元が落ち着かない。

社長と直接仕事で関わったことはない。なのに呼び出された理由がわからず、嫌な胸騒ぎがする。

今回は、何を言われるんだろう。
もしかして、クビ宣告?
だって、もう私に会いたくないはずだから。

その疑問を抱えたまま、処刑台へ向かう罪人みたいに重い足取りでドアの前に立つ。しばらく治まっていた胃のむかつきが、またぶり返してきた。

いやだな、会いたくない。
ここから逃げたい。
早く帰りたい。

そんな思いで立ち尽くしていると、背後から声がした。

「バイヤー部の小宮さん?」

驚いて肩が跳ねる。振り返ると、社長秘書の本間さんが笑顔で立っていた。まるでデジャヴのよう。

「みなさん、お待ちですよ。どうぞ」

……えっ。
みなさん?

誰がいるのか。
何が待っているのか。

考えるより先に、胃がぎゅっと握り潰される感覚がした。社長ひとりでも耐えられる気がしなかったのに、その一言で、状況が一気に見えなくなる。

入らなきゃいけないのに、足が前に出ない。

床に流し込まれたコンクリートが固まったみたいに、下半身だけが、がちがちに動かなかった。無意識のうちに、身体が部屋に入るのを拒否している。

「……」

声も出ない。
ただ呼吸だけが、浅く、速くなっていく。

 

本間さんが、不思議そうに私を見て、そっと肩に手を置いた。力を込めたわけじゃない。ただ、促すように触れただけ。

それでも、その瞬間、背中を押されたように感じた。

抵抗するつもりなんてなかったのに、身体は言うことを聞かない。半歩、前に出されるようにして、ようやく扉の内側に足を踏み入れた。

「社長、バイヤー部の小宮さんです」

案内され、応接セットの椅子に腰を下ろす。
蚊の鳴くような声で「失礼します」と呟き、顔を上げた、その瞬間――状況が一変した。

目の前には、三人の男性。

お世話になった弁護士、伊集院涼介先生。
そして、社長。その隣には、どこか見覚えのある、整った顔の男性。

「どうぞ、小宮さん。こちらはデカフェのコーヒーです」

差し出されたカップを、すぐには受け取れなかった。立ちのぼるコーヒーの匂いが鼻をかすめただけで、胃酸が喉元まで込み上げてくる。

それに……デカフェ?

わざわざ?
どうして?

胸の奥に、真っ黒い不安が、ゆっくりと広がっていく。

社長が、静かに口を開いた。

「……体調は、あまり良くなさそうだね」

静かな声。責めるでも、労わるでもない。ただ、事実を確認するような口調。

「大丈夫、です」

そう答えたつもりなのに、声は掠れて、少し遅れて出てきた。

 



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