[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
振り払おうとしたが、相手の腕力が強く、
身体が前に引き寄せられた。清掃カート越しに、その人の顔が急に近づく。逃げ場がない距離だった。

ゆっくりと、キャップが外される。

――研二!

喉に、冷たい空気が一気に流れ込んだ。

「おまえのせいで……俺は全部失ったんだ!」

血走った目。
やつれた頬。

かつての自信に満ちた面影は、どこにもない。

「分かるか?」

低い声が、すぐ近くで耳に刺さった。

「俺はさ、できる男だった。仕事もできたし、女にも困らなかった。周りもそう思ってたし、俺自身も、そう信じてた」

掴む力が、さらに強まる。

「それが全部だ。おまえに払った慰謝料の金も、仕事も……今は倉庫だ。もう、表に出ることはないんだよ」

歪んだ笑みを浮かべて、吐き捨てる。

「全部、おまえのせいだろ。返せよ。俺の人生」

左手で私の腕を掴んだまま、研二は床を踏み鳴らす。ブツブツと、聞き取れない言葉を繰り返しながら。

そこにいたのは、かつての恋人でも、婚約者でもない。私の知らない、壊れた人間だった。

 

一瞬、力が緩んだ。

その隙を逃さず、手を振り切り、踵を返して走り出す。

非常階段へ。
とにかく、あそこへ。

しかし妊娠した身体は重く、足がもつれる。
思うように走れない。



「おまえだけは、絶対に許さねぇ!」
「おい!」

背後で、研二と別の誰かの怒声が重なった。
振り返る余裕なんてない。

もしかしたら、助かるかもしれない。
今が、最後のチャンス。

息が、ほんの一瞬だけ整った。

 

レバーハンドルを下げ、非常階段へ飛び込む。ドアが閉まる音に、わずかな安心を覚えてしまう。

そのせいか、ローヒールで階段を降りる速度が、少しだけ落ちた。お腹に赤ちゃんがいると思うだけで、足が(すく)む。

だから――追いつかれた。

次の瞬間、背中に強い圧が加わり、視界がぐるりと回転した。思わず、声にならない悲鳴が漏れる。

全身に走る衝撃。
反射的に、お腹をかばった。

 

背中が床に叩きつけられ、頭を打つ。
息が、うまく吸えない。胸が潰されるみたいで、呼吸の仕方が分からなくなる。

視界がにじむ。涙が浮かんでいるのだと、ぼんやり思った。

音が、遠ざかっていく。

 

それでも、浮かんだのは――
あの人の顔。

彼の視線が、忙しなく動いていた。
私の顔、肩、そしてお腹へ。
確かめるように、焦るように。
実際に、ここにいるかのように。

きっと、幻想を見ているんだ。

 

何かを言おうとしているのに、言葉にならない。口が動いているのに、音は聞こえない。

――大丈夫だよ。

そう、彼に言ってあげたかった。

 

床の冷たさが、じわじわと身体に広がる。
遠くで、誰かの声が反響していた。肩に触れる温もりだけが、やけに現実味を帯びている。

視界の端で、彼の顔が歪んだ。今にも泣き出しそうな、必死な表情。

それを見たところで、もう限界だった。意識が、静かに、闇の向こうへ落ちていく。
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