[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
それでも俺は、彼女が戻ってくる可能性を、どこかで当然のように思っていた。
俺は社長だ。これまで、どんな場面でも、最終判断を下す側にいた。正しいかどうかは、俺が決めてきた。責任を取るかどうかも、俺が選んできた。
それなのに彼女は、俺の『正しさ』そのものを、必要としなかった。
『放っておいてください』
『もう、来ないで』
その言葉が、ようやく遅れて意味を持つ。もう関係ない、という宣告だった。
引き留める理由も、
説得する資格も、
与えられていない。
彼女が出口へ向かう背中を、俺はただ見ていることしかできなかった。声をかければ、さらに遠くへ行ってしまうと、本能的に分かっていた。
俺は、何を間違えた?
いや、違う。
間違えたんじゃない。
取り返しのつかないところまで、
間に合わなかった。
その事実だけが、遅れて、確実に、頭の中を埋め尽くしていった。呆然と立ち尽くす俺の肩を、涼介が軽く叩く。
「京兄ちゃん、焦るな。ゆっくり説得しよう」
「そうだ、久しぶり喫茶Bonにでも行こうぜ。母さんのバナナブラウニー、食べたい」
努めて明るく振る舞う雅。俺は曖昧に頷きながら、遅れてドアへ向かった。
ドアノブに手をかけた瞬間、廊下から男の怒声が響いた。
何だ……?
一気に血の気が引き、俺は飛び出した。目に飛び込んできた光景に、息を呑み、目を疑う。
清掃員の男が喚きながら彼女を非常階段へ追いかけている。咄嗟に体が動いた。視線だけは彼女から外さずに。足音で、涼介と雅も俺に続いているのがわかる。
「おい!」
雅の叫び声に、男が反応した。一瞬こちらを振り返る。その顔を見た瞬間、頭を殴られたような衝撃が走る。
――矢部だ。
平井フーズの営業として、うちの会社にプレゼンに来ていた男。尊大な態度。場を読まない物言い。そして、人を踏み台にすることに、何の躊躇もない男。それが真帆子の元婚約者。
涼介が誓約書を書かせたはずだった。二度と真帆子に近づかないと、確かに誓わせた。
それでも、矢部はここにいる。すべてを失った末に、彼女の前に現れた。
倉庫勤務に左遷されたと聞いていた。だが、ここまで堕ちているとは思わなかった。立場を捨て、名前を捨て、それでも彼女の人生に入り込もうとする執念。
――これは、偶然じゃない。
手足に血液が集中するのを感じ、体がさらに速く動いた。矢部との距離が、確実に縮まっている。
真帆子が非常階段のドアを両手で押し開け、中へ吸い込まれるように視界から消えた。
ガチャン。
重い音だけが残る。続くように矢部がレバーハンドルに手をかけ、中へ入った。
――まずい。
数秒遅れでドアを開けた。その小さな隙間をすり抜け、彼女の悲鳴が届く。嫌な予感しかない。
ドアを開け切り、踊り場に出た瞬間、息が、時が……すべてが止まった。
階段の途中で立ち尽くす矢部は、息が上がっている。その視線の先を辿り、見たくなかった光景が目に飛び込んできた。
俺は社長だ。これまで、どんな場面でも、最終判断を下す側にいた。正しいかどうかは、俺が決めてきた。責任を取るかどうかも、俺が選んできた。
それなのに彼女は、俺の『正しさ』そのものを、必要としなかった。
『放っておいてください』
『もう、来ないで』
その言葉が、ようやく遅れて意味を持つ。もう関係ない、という宣告だった。
引き留める理由も、
説得する資格も、
与えられていない。
彼女が出口へ向かう背中を、俺はただ見ていることしかできなかった。声をかければ、さらに遠くへ行ってしまうと、本能的に分かっていた。
俺は、何を間違えた?
いや、違う。
間違えたんじゃない。
取り返しのつかないところまで、
間に合わなかった。
その事実だけが、遅れて、確実に、頭の中を埋め尽くしていった。呆然と立ち尽くす俺の肩を、涼介が軽く叩く。
「京兄ちゃん、焦るな。ゆっくり説得しよう」
「そうだ、久しぶり喫茶Bonにでも行こうぜ。母さんのバナナブラウニー、食べたい」
努めて明るく振る舞う雅。俺は曖昧に頷きながら、遅れてドアへ向かった。
ドアノブに手をかけた瞬間、廊下から男の怒声が響いた。
何だ……?
一気に血の気が引き、俺は飛び出した。目に飛び込んできた光景に、息を呑み、目を疑う。
清掃員の男が喚きながら彼女を非常階段へ追いかけている。咄嗟に体が動いた。視線だけは彼女から外さずに。足音で、涼介と雅も俺に続いているのがわかる。
「おい!」
雅の叫び声に、男が反応した。一瞬こちらを振り返る。その顔を見た瞬間、頭を殴られたような衝撃が走る。
――矢部だ。
平井フーズの営業として、うちの会社にプレゼンに来ていた男。尊大な態度。場を読まない物言い。そして、人を踏み台にすることに、何の躊躇もない男。それが真帆子の元婚約者。
涼介が誓約書を書かせたはずだった。二度と真帆子に近づかないと、確かに誓わせた。
それでも、矢部はここにいる。すべてを失った末に、彼女の前に現れた。
倉庫勤務に左遷されたと聞いていた。だが、ここまで堕ちているとは思わなかった。立場を捨て、名前を捨て、それでも彼女の人生に入り込もうとする執念。
――これは、偶然じゃない。
手足に血液が集中するのを感じ、体がさらに速く動いた。矢部との距離が、確実に縮まっている。
真帆子が非常階段のドアを両手で押し開け、中へ吸い込まれるように視界から消えた。
ガチャン。
重い音だけが残る。続くように矢部がレバーハンドルに手をかけ、中へ入った。
――まずい。
数秒遅れでドアを開けた。その小さな隙間をすり抜け、彼女の悲鳴が届く。嫌な予感しかない。
ドアを開け切り、踊り場に出た瞬間、息が、時が……すべてが止まった。
階段の途中で立ち尽くす矢部は、息が上がっている。その視線の先を辿り、見たくなかった光景が目に飛び込んできた。