[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
彼女の目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。嬉しさじゃない。戸惑いだ。

「君の人生を、俺の思い通りにしたいわけじゃない。君の世界を、俺の価値観で塗り替えるつもりもない。ただ、君の隣にいたいだけだ。ひとりの男として」

「……でも」

「DNAも、やらなくていい」

言い切った瞬間、涼介の顔が脳裏に浮かんだが、今は関係ない。

「君が望まないなら、結婚もしなくていい。紙も、順番も、世間も――いらない」

俺はゆっくり息を吐く。

「それでも俺は……君のそばにいる」

彼女の喉が、小さく上下した。

声にはならない。けれど、彼女の気持ちに何かが触れたのが分かった。



俺は視線を落とし、点滴トレーの端に置かれていた銀色の袋に気づく。

そっと剥がし、指先で細く折りたたむ。

「……あの夜さ」

低く、静かな声で続けた。

「俺、言ったよな。『君には、もっとちゃんとした男が似合う。……指輪も』って」

彼女の指が、わずかに震える。

俺は視線を逸らさず、言い切った。

「今でも、間違ってないと思ってる。君には、ちゃんとした男が必要だ」

深呼吸をした。

「だから――俺が、なる」

傷跡に触れないよう、慎重に。彼女の薬指に、銀色の輪をはめる。

彼女は外そうと思えば外せるはずなのに、指が動かない。

その事実に、少しの可能性を見出した。

「本物の指輪は、あとで必ず用意する。でもこれは、あの夜の続きだ」

彼女の瞳が揺れる。息が浅い。

俺は、今度こそ逃げない言葉を選んだ。

「俺と結婚してくれ」

静かに、しかし迷いなく。

「君と、俺たちの子を、守り続ける。……愛し続ける。その人生を、俺にくれ」



そのときだった。ノックの音とともに、病室のドアが開く。

「邪魔するぞ」

涼介だった。スーツの内ポケットから、無造作に一枚の紙を取り出す。

「区役所はもう閉まってるが、婚姻届は手に入る」

淡々と、いつもの調子で。

「証人欄は俺が書く」

彼女が驚いたように紙を見る。俺は、その視線の先を見て息を飲んだ。

彼女の手が、わずかに震えている。

涼介は空気を読まないふりをして、机の上に婚姻届とペンを置いた。

「……書く書かないは、今決めなくていい」

涼介の声は、珍しく柔らかかった。

「でも『形』は用意しておく。逃げ道も含めてな」

俺は、彼女を見た。

「真帆子。これは、君が決めていい」

その言葉の重みが、ようやく俺にも分かった。
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