[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
この小さなバーは、ミッドタウン裏の雑居ビル。看板もなく、店名は『名無し』。元酒類卸のCEOだったマスターが趣味で開いた、俺の隠れ家だ。

表の通りから一本入っただけなのに、外の喧噪はここまで届かない。偶然通りかかって見つけた店だったが、扉を開けた瞬間、静けさを売る場所だと思った。

以来、誰にも教えずに通っている。

古い木のカウンターには細かな傷が残り、グラスを置くたび、乾いた音がやけに大きく響く。



(きょう)先輩、ペースが早いようですが、大丈夫ですか?」

新しいウイスキーのストレートを置いた若林が案じる。

頷いて、美しい琥珀色の液体を口に含む。
舌に広がる熱と苦味が、焦燥と虚無に溶けていく。

37にもなって感情を制御できないとは。

こんな時、既婚者である弟や仲間が羨ましい。
 
俺にはいない。
愛する妻など。

それどころか、真剣に女性と付き合った記憶もない。

必要以上に踏み込まない。それが、俺が選び続けてきた距離感だった。



またセフレで紛らわせるか。
そう思った矢先、カウンター奥の女性客が目に入った。

珍しいな。ここに女が来るなんて。
多分30歳前後か。

ミントをつぶす音、炭酸の泡。時折、今にも泣き出しそうに顔を歪め、無意識に左薬指へ触れてハッとする。

傷ついているのか?

そう判断する資格など、俺にはない。

他人の事情に首を突っ込まない。それを美徳だと信じてきたはずなのに、なぜか彼女が気になって仕方なかった。



やがて彼女はゆっくり立ち、店を出る。

会計をしている俺に、マスターが小声で言った。

「あの娘さん、弱そうだったから薄めに作ったが……京君、この水、渡してやってくれないか」

一瞬、指が止まる。

――関わるな。

頭の奥で、いつもの声がそう告げた。

だが、マスターの手元に残るペットボトルから、視線を切れなかった。少し躊躇したが、結局それを受け取り、早足で彼女を追う。

一体俺は何をしているんだ。

いつもなら絶対、頼まれても、しないようなことを。



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