[慶智の王子・西園寺京の物語]ラブストーリーは一夜の過ちから始まる〜アラフォー男と三十路女の拗らせ恋愛〜
カーテンの合わせ目に、東雲色の空。
携帯を見るとすでに7時か。
体に多少の疲れがあるものの、心は妙に澄んでいる。
隣のシーツはもう冷たい。眠りに落ちるまでに交わした体温だけが、まだ指先に残っている。
シャワーを浴びながら、記憶の糸をゆっくりたぐった。
ビルの出入口で追いつき、彼女に水を渡した。礼を言い、ふらつく足取りで駅へ向かう華奢な後ろ姿。
――彼女は、この俺を知らない。
本来なら、それは距離を保つ理由になるはずだった。名前も肩書も知られずに向けられる視線。その新鮮さ。
見送るつもりでいたはずなのに、気づけば後を追い、衝動のまま腕を取っていた。
「静かな所で、少し飲み直さないか」
37歳にして初のナンパだ。
自嘲したが、振り返った彼女の瞳は、さっきまでとは違っていた。何も映していなかったその目が、俺の方を向いている。
そのまま、ミッドタウンのホテル9(クー)へ。
やましさがなかったとは言わない。ただ、虚しさを埋めるために彼女を利用した。そう言われても否定できない。
夜風に当たると、少しだけ酔いが引いた。並んで歩く間、ほとんど言葉はなかった。
エレベーターの静かな上昇音が、やけに長く感じられる。彼女は何も聞かず、俺も何も言わなかった。
部屋のカードキーが反応した音で、ようやく現実に戻る。
部屋でワインを開ける。
沈黙が重くなる前に、俺は話し始めた。悠士のこと。抑え込んできた苛立ち。
彼女は遮らず、ただ静かに聞いていた。
「あなたが大切だから……迷惑をかけたくなかったのかも。彼なりの優しさ、なのかもしれませんね」
その言葉が腹に落ちた瞬間、長く居座っていた霧が、音もなくほどけた。
彼女の声の温度、視線のまっすぐさ。今まで、俺の周りにはいなかったタイプの女性だ。
どうしたんだ、俺は。
彼女から、目を逸らせない。
……らしくない。
アルコールのせいにしたが、そうではないと分かっている。
「君は……どうして、そんな目をしている?」
彼女は一瞬固まり、夜景へ視線を逃がした。
左薬指にそっと触れてから、静かに言う。
「……さっき、婚約破棄されたの。『真実の愛を見つけた』んですって」
無理に作った笑顔が、痛々しい。
同期の男に罵られ、指輪を乱暴に外されたらしい。そして3ヶ月、触れられなかったとも。淡々と語るほど、傷は深いと分かる。
彼女の左薬指に、赤く腫れた跡を見つけた。
「……痛そうだな」
テーブルの端にある、ワインボトルの口を留めていた銀色の帯を指で弄ぶ。仮のものだと、分かっている。
「今はさ……これで、勘弁してくれ」
冗談めかして、細い指にそっと巻いた。
傷に触れないよう、慎重に。
「君には、もっとちゃんとした男が似合う。……指輪も」
「婚約破棄だけでも辛いのに、なんで……。
このまま消えてなくなりたい」
携帯を見るとすでに7時か。
体に多少の疲れがあるものの、心は妙に澄んでいる。
隣のシーツはもう冷たい。眠りに落ちるまでに交わした体温だけが、まだ指先に残っている。
シャワーを浴びながら、記憶の糸をゆっくりたぐった。
ビルの出入口で追いつき、彼女に水を渡した。礼を言い、ふらつく足取りで駅へ向かう華奢な後ろ姿。
――彼女は、この俺を知らない。
本来なら、それは距離を保つ理由になるはずだった。名前も肩書も知られずに向けられる視線。その新鮮さ。
見送るつもりでいたはずなのに、気づけば後を追い、衝動のまま腕を取っていた。
「静かな所で、少し飲み直さないか」
37歳にして初のナンパだ。
自嘲したが、振り返った彼女の瞳は、さっきまでとは違っていた。何も映していなかったその目が、俺の方を向いている。
そのまま、ミッドタウンのホテル9(クー)へ。
やましさがなかったとは言わない。ただ、虚しさを埋めるために彼女を利用した。そう言われても否定できない。
夜風に当たると、少しだけ酔いが引いた。並んで歩く間、ほとんど言葉はなかった。
エレベーターの静かな上昇音が、やけに長く感じられる。彼女は何も聞かず、俺も何も言わなかった。
部屋のカードキーが反応した音で、ようやく現実に戻る。
部屋でワインを開ける。
沈黙が重くなる前に、俺は話し始めた。悠士のこと。抑え込んできた苛立ち。
彼女は遮らず、ただ静かに聞いていた。
「あなたが大切だから……迷惑をかけたくなかったのかも。彼なりの優しさ、なのかもしれませんね」
その言葉が腹に落ちた瞬間、長く居座っていた霧が、音もなくほどけた。
彼女の声の温度、視線のまっすぐさ。今まで、俺の周りにはいなかったタイプの女性だ。
どうしたんだ、俺は。
彼女から、目を逸らせない。
……らしくない。
アルコールのせいにしたが、そうではないと分かっている。
「君は……どうして、そんな目をしている?」
彼女は一瞬固まり、夜景へ視線を逃がした。
左薬指にそっと触れてから、静かに言う。
「……さっき、婚約破棄されたの。『真実の愛を見つけた』んですって」
無理に作った笑顔が、痛々しい。
同期の男に罵られ、指輪を乱暴に外されたらしい。そして3ヶ月、触れられなかったとも。淡々と語るほど、傷は深いと分かる。
彼女の左薬指に、赤く腫れた跡を見つけた。
「……痛そうだな」
テーブルの端にある、ワインボトルの口を留めていた銀色の帯を指で弄ぶ。仮のものだと、分かっている。
「今はさ……これで、勘弁してくれ」
冗談めかして、細い指にそっと巻いた。
傷に触れないよう、慎重に。
「君には、もっとちゃんとした男が似合う。……指輪も」
「婚約破棄だけでも辛いのに、なんで……。
このまま消えてなくなりたい」