暁に星の花を束ねて

アンチナリア・シード



技術本部・生命環境調和部門(BEH)。


風が変わった。
それは温度でも湿度でもなく、どこかの気配そのものが入れ替わるような変化だった。

研究棟の外では、落ち葉と光が同じ速度で揺れている。

秋。
夏の名残がようやく退きはじめる頃。

研修を終えてから、はや三ヶ月。

正式な研究員となった葵の机は、今や小さな森のようになっていた。

サンプル鉢、光合成パネル、遺伝子培養槽。

ステラ・フローラ室の片隅で、彼女は植物とデータの両方に囲まれながら暮らしている。

「……うーん……」

静まり返った研究室の奥、照明を落としたサブラボで、葵は独り端末と向き合っていた。

周囲には誰もいない。

冷えた空気と微細な機器音だけが沈黙に代わるBGMだった。

気になって仕方がなかった。
佐竹からのわずかな残香。

薬品とも有機溶剤とも言いがたい、淡く鋭い香りだった。

鼻の奥に深く刺さるような感覚が、いまも彼女を離さない。

(あの香り……でも、どこかで)

何かを思い出せそうで、思い出せない。
しかし確かに、あれは一度だけ嗅いだことがある。
それがどこだったのか。

手元の端末を操作し、BEHに保管されているナノ毒抑制関連のデータベースを呼び出す。

抑制剤の成分リスト。

使用中止になった試薬群。
研究途上で封印された毒性化合物の記録。

どれも違う。

「……そんなはず……」

焦りにも似た感情が胸を掠めた。

葵は旧式のアクセス権限でのみ開けるBEHの封印フォルダを呼び出す。

このフォルダは研修期間が修了し、ようやく開けるようになったものだ。

廃棄直前、もしくは公式には存在しないとされた試薬の断片が、そこに眠っている。

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