暁に星の花を束ねて
水道の蛇口をひねり、水音が静かに響く。
シャツ袖をきちんと捲り、一枚一枚、丁寧に洗っていく。
その背中を、葵はソファに座ったまま見ていた。
(……こういうところも……)
派手ではない。
でも安心する。
葵はどのタイミングで云うべきか、迷っていることがあった。
(いま、かな……)
拭き終えた食器を片付け、最後にシンクを軽く流してから、佐竹はタオルで手を拭いた。
振り返ると、葵が少しだけ姿勢を正している。
「あの……」
控えめな声。
「……佐竹さん」
呼ばれて、佐竹は足を止める。
「これから、一緒に暮らすことになりましたし……」
言葉を選びながら、葵は胸の前で指を組む。
「その……お名前で呼んでも……いいですか?」
一瞬、佐竹の動きが止まった。
驚いたわけではない。
拒むつもりも、ない。
ただ重みがあった。
名前で呼ばれるということは、距離が変わるという意味だから。
「……」
佐竹は小さく息を吐いた。
「もちろんだ」
低く、落ち着いた声。
「……むしろ」
一歩、距離を詰める。
「今さら、だな」
葵の顔が、ぱっと明るくなる。
「……じゃあ……」
一瞬、ためらってから。
「……蓮、さん……」
その呼び方は思ったよりも自然で、思ったよりも胸に響いたが……。
「聞こえない」
「れ、蓮さん!」
「もう一度」
「蓮!!」
「……もう一息」
「れんーーーーーっ!!」
佐竹はほんの一瞬だけ目を伏せ、そして静かに応じる。
「……葵」
名前を返されただけなのに、それだけで空気がやわらぐ。
「これからは、そう呼べ」
佐竹は淡々と、だがはっきりと云った。
葵は肩で息をつくと、小さく頷いて呆れ、しかし少し照れたように笑う。
「もう、れんったら……」
キッチンとリビングを隔てていた距離が、いつの間にかなくなっていた。
それは同じ家に住む、ということ以上に、同じ場所で生きていく。
その最初の合図だった。
「あの……佐竹さんはどうして、わたしのことをフルネームで呼んでいたんですか?」
「美しい名前だからだ」
そう云ったあと、佐竹はほんのわずかに視線を逸らした。
照れているわけじゃない。
ただ言葉を選んだ余韻だった。
「それだけじゃない」
葵が、きょとんと目を瞬かせる。
「名前というのは、その人そのものだ」
淡々と、だが揺るがず。
「おまえが歩いてきた時間も、迷ったことも、笑った顔も。すべて含めて、星野葵だ」
佐竹は葵の頬をそっと撫でた。
「おまえの名前が好きだ」
葵の目が嬉しさと感激、そして照れ臭さで潤む。
「れん……」
「大切なものを雑に呼ぶ趣味はない」
葵は感激してしばし言葉を失う。
佐竹は一瞬だけ困ったように笑い視線を伏せる。
「それに……」
声を落として低く、優しく。
「おれは、おまえの名前を呼ぶたびに、ちゃんと生きてると思えてきた」
佐竹が葵の膝の横に手をつき、覆いかぶさるように顔を近づける。
スリーピーススーツのジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを少し外した蓮の姿は、オフィスで見せる完璧な鉄仮面とは程遠い、野性的で危うい色香を放っていた。
「……だが、これからは。葵だ」
会社とはどこか違う佐竹。
名前を呼ばれた瞬間、葵の心臓が跳ねた。
胸の奥があたたかくなる。
「はい。ううん……れん」
小さく返した声に、
佐竹は、もう隠さなかった。
ほんの少しだけ、
指先を絡める。
それだけで、十分だった。
この距離、この呼び方。
それはもう、恋人という言葉では足りなかった。