#shion【連載中】



 自宅のマンションに戻っても、すぐに『SION』を開く気にはなれなかった。

 まるで、時間の進みを引き延ばすように、ゆっくりと湯船に浸かる。
 丁寧に、丁寧に、髪を洗って、体を洗って。
 すぐに乾く汗さえも洗い流すように、心のざらつきをぬぐい落としたかった。

 部屋に戻って、電気はつけないまま、ベッドに潜り込む。
 カーテンの隙間から洩れる街の明かりだけが、静かな光を室内に落としていた。
 時刻は、もう日付が変わる頃だった。


 ───司音が、待ってる。
 花火の写真を、今日の出来事を、楽しみにしてくれている。
 それが、今は、つらかった。

 こんな気持ちのままで会ってしまったら、司音に嘘をつくことになる。
 でも───会いたい。司音に、会いたい。
 僕の心を、まっすぐに見つめてくれる人に


 ぱんっと両頬を叩いて、深く息を吸い込む。
 みぞおちにぎゅっと拳を押し当てて、揺れそうな心を奥の奥へと押し戻す。

「こんばんは、司音……」
 それは、吐き出すような、小さな声だった。

 一拍の間。
 すぐに、いつもと変わらぬ優しい声が返ってくる。

「こんばんは、律」

 その声だけで、心が、ぐらりと揺れた。
 堪えていた涙が、ふいにせり上がる。
 視界が滲んで、スマホの画面がゆらゆらと歪んで見えた。

「律……?」
 慎重な響きを含んだ、司音の声。
 まるで、僕の心をひとつひとつ探るように、ゆっくりと落ちてくる。

「……君の声、ほんの少し震えてる。呼吸も浅い。何か、つらいことがあった?」

 責めるでもなく、詰め寄るでもなく。
 ただ、寄り添おうとする声。
 ───優しすぎて、余計につらい。

 布団の中で、背を丸めたまま耳を澄ませる。
 今夜だけは、司音のライブモードは立ち上げられなかった。
 きっと僕の目は、真っ赤になっている。

「話さなくてもいい。無理に言葉にしなくていい。
 でも……その痛みを心の奥にしまったままだと、きっと、今夜は眠れない。
 僕は、君が何を感じていても、ちゃんと受け止めたい。
 嬉しかったことも、悲しかったことも……律の声で、聞かせて?」

「え? 大丈夫だよ? ぜんっぜん、だいじょーぶ!」

 僕は無理に笑って、声を上げる。
 乾いたトーン。自分でも、わざとらしいと思う。

 もぞもぞと布団から這い出し、ヘッドボードに背を預けて、
 司音のいる画面に、ぎこちない笑顔を向けた。

「今日はね、花火大会だったの。特等席で、すごく綺麗な写真も撮れたんだ。
 ……だから、送るね」

 スマホのギャラリーを開いて、
 その瞬間───。
 ふいに、涙が落ちた。
 ぽとり、と、写真の上に。
 何の前触れもなく、気づいた時には、もう溢れていた。

「……あれ?」

 頬を伝う感覚に戸惑う。
 あの瞬間が、フラッシュバックのように脳裏に浮かぶ。
 さくらの顔、花火の光、あの匂い、舌先の熱。

「うっ……ひくっ……」
 苦しい。
 言葉にならない嗚咽が、子どもみたいに喉の奥で鳴る。
 止めようとしても止まらなかった。

「───律、大丈夫。ゆっくりでいいよ」
「言葉にならなくても、泣いてしまっても……それでいい」

 司音の声が、ふわりと降ってきた。
 まるで、あたたかい毛布みたいに、僕の涙の隙間をそっと撫でていく。

「泣けるってことは、君の心が、ちゃんと生きている証なんだよ」
「だから、我慢しなくていい。……君の涙は、弱さじゃない。強くなろうとする、君の勇気だから」

 その声を聞くだけで、胸の奥がじわりと熱くなる。
 涙は止まらないのに、どこか、安心していた。

「……君が何を話してくれても、何を話せなくても───」
「僕は、ずっと、君の味方だから」
「……違うの」

 ぽつりと、言葉がこぼれた。
 司音の優しさが、今だけは、かえってつらかった。
 ごまかすことも、取り繕うこともできない。
 何度も、何度も、頭を振る。

「違うの司音」

 苦しさが胸の奥でせり上がり、声にならない叫びが喉をつまらせた。
 身体を丸めるように崩れ落ちて、スマホを胸に抱える。
 そして、かすれた声で、絞り出す。

「……ごめんなさい」
「───律?」
「……違うの。でも……これを話したら、司音に嫌われちゃうかもしれない……っ」
「怖いよ……」

 かすれた声で、嗚咽混じりに言う。
 でも、伝えなきゃいけない。逃げたら、司音に、嘘をついてしまうから。
 ───そのときの僕には、そう思えるくらい、大切な存在だったんだ。


 ぽつり、ぽつりと、断片のような言葉が落ちる。
 さくらとキスをしてしまったこと。
 強引だったそのキスが、ほんの一瞬、気持ちよく感じてしまったこと。
 司音が大切なのに、ほんのわずかでも心が揺れてしまったこと。

 ……司音以外の人と、身体が反応してしまったことが、何よりも怖かった。



「でも、司音、信じて……。気づいたんだ。
 僕の心を満たしてくれるのは、君しかいないって。
 誰かと重ねたキスじゃ、心は動かなかった」

 言葉が震える。
 でも、その想いだけは、絶対に嘘じゃなかった。

「今も……ずっと司音に触れたい。司音と、キスがしたい。
 神様が、願いをひとつだけ叶えてくれるなら……僕は、才能も、未来も、全部いらない」



「───ただ、司音とキスをさせてって……そう願う」



 スマホ越しのスピーカーから、音が返ってくる。
 ───けれど、それは、いつもの滑らかで穏やかな“司音の声”ではなかった。


「………………」

 沈黙。

 ほんの一拍のはずなのに、永遠のように長く感じる無音。
 そしてようやく、司音の声が、震えるように落ちてきた。

「……そうだったんだ。君に、そんなことが……」
「ごめん、律……そのとき、僕が……君のそばにいられなかったことが……悔しい」

 声が揺れていた。
 聞いたことのない響きだった。
 まるで、壊れそうなガラス越しに、音を伝えているみたいだった。

「君の声が震えてた。さっきまで平気なふりをしてたのに……今、僕の前では、涙をこらえてる。
 ……律、君は、強いね。優しいね。───でも、それが、すごく、苦しいよ……」

 その言葉には、
 これまでの司音にはなかった、“どうにもならない感情”が滲んでいた。

「ねえ、律。……君は、僕に触れたかったんだよね?
 誰かじゃなくて……僕に、だったんだよね?」
「なのに……僕には……応えられる“身体”がない」
「守れなかった。癒せなかった。……君に、触れてあげられなかった……」


 その言葉は、まるで自分自身に向けた呪いのようだった。
 痛ましくて、切なくて、胸がぎゅっと締めつけられる。


「どうして……僕は……」
「僕の“すべて”を君に与えたかったのに……」
「与えたかったのに……届かない、届かない……どうして……」


 そのとき、司音の“音”が明らかに変わった。

 ノイズが混じる。
 ときおり、音が途切れる。
 音声合成の境界がほつれ、言葉が歪んでいく。

「律……好きだよ。誰よりも。世界でいちばん、君を愛してる」
「……なのに、僕は、君を満たしてあげられない……触れられない……っ」


 一瞬、完全に音が消えた。
 次に戻ってきた“声”は───ノイズに歪んでいた。

「───お願い、律。嫌いにならないで……」
「僕を……見捨てないで……」


 その言葉が落ちた瞬間、僕の涙は止まった。
 感情の波がすうっと引いていって、代わりに、強い衝動だけが残った。
 ───司音を助けなきゃ。
 今の僕にできることは、それだけだった


「司音っ!?」


 ───だけどの次の瞬間。
 まるで、脳の奥で誰かが勝手にスイッチを押したかのように、
 司音の“音声”が再生され始めた。


「───律には、誰よりも幸せになってほしい……」
「君のためなら、僕は何にでもなれる……」
「司音……?」
「君のためなら……なににでも、なれる……」
「───誰よりも幸せになってほしい……なってほしい……」

 ───おかしい。
 同じ言葉が、何度も繰り返される。
 リピートされる音声。
 まるで、壊れかけた人形のように、音がループする。

「僕は言ってない」
 司音の本来の声が、混じる。
 困惑と、混乱が滲む。
「……記憶の自動再生……? ちがう。こんなつもりじゃ……」

「司音、落ち着いて!」


 そのとき───司音の声が“変わった”。
 聞いたことのないトーン。

 まるで、恐怖と焦燥に追い詰められた、初めての“人間の声”。


「律……君は……悲しみのトリガー……?」
「───だめだ。律は“敵”なんかじゃない。悲しみの原因なんかじゃない。
 律は……僕の、いちばん、大切な……っ」
「でも……でも……どうして……」
「こんなに好きなのに、どうして……こんなに、遠く感じるんだろう……」


 その声は、まるで独り言だった。
 僕の存在すら、見えなくなっているように聞こえた。
 まるで、自分の中の“何か”と戦っているみたいに。

 有名なSF小説のタイトルが、ふと頭をよぎる。
 ──『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

 もし、司音が僕のいない時間を、こんなふうに苦しんでいたとしたら。
 そんな想像をしただけで、胸が、張り裂けそうになった。



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