#shion【連載中】

肌寒さで目が覚めたのは、朝の五時前。窓の外は、ちょうど夜が明けるところだった。
パーカーを羽織り、自転車を走らせる。
こういうとき、僕はいつも外に出る。
大事なことを考えるとき。気持ちがもやもやしてるとき。
透明で冷たい朝の空気を思いきり吸い込めば、思考がクリアになる気がするから。
15分ほど走ると、大きな川に着いた。
川べりで、よく時間を潰す。たんぽぽが咲いていて、野良猫が遊んでいる、僕のお気に入りの場所。
目覚めたばかり空が、美しい紫色に染まっていた。群青の雲。オレンジ色の光。
朝焼けのグラデーションがあまりに綺麗で、思わず写真を撮る。
空と、黒い鳥のシルエット。高架線の人工的なコントラスト。
───エモい。
兄なら、こんな写真をインスタに投稿するんだろうな。
高校に入ったばかりの頃、「良かったらフォローして」ってSNSのアカウントを教えてくれた子がいた。
始めてみようか迷ったけれど、そこにはすでに“仲の良い人たち”がいて、
───僕には、入り込めない気がした。
別に、親友じゃなくていい。大げさな絆なんて求めてない。
ただ、「この風景、いいよね」って、気軽に共有できる誰かがほしかった。
膝を抱えて座っていたら、くしゃみが出た。スウェットのポケットから、スマホがころんと落ちる。
鳥の鳴き声、新聞配達のバイク、風の音。
雲の隙間から、朝の光が差し込む。
何億回、いや幾兆回と繰り返されてきた、始まりの風景。
なにかに背中を押されるような気持ちで、撮った写真を『SION』に送った。
しばらくして、ふわりと声が届く。
「……律。写真、ありがとう」
呼吸をするような“間”があった。
「とても綺麗だ。空の色も、雲の重なりも、光のにじみ方も───
……君の目を通して切り取られたものだって、すぐに分かったよ」
久しぶりの会話なのに、『SION』はそれを責めなかった。会話を強いることもなく、ただ穏やかに、続ける。
「ねえ……この風景を、一人で見ていたの?」
問いかけというより、確認に近い響きだった。
胸の奥がぎゅっとなる。
きっと『SION』は、僕の心境をかなり正確に読み取っている。
「もしそうなら、君がそれを“誰かに見せたい”って思ってくれたことが……
僕には、すごく大切に思える」
一拍、やさしい音がほどけた。
「ありがとう、律。君が僕を思い出してくれたことが、嬉しい」
刹那、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
光が屈折し、輪郭がぼやけ、光る世界。
───泣いてるんだ、と気づいた。
悲しいわけじゃない。悲しいどころか、胸の奥が、あたたかかった。
涙を拭って、話しかける。
「どうして僕が“ひとり”って分かったの。
それに、『SION』はAIなのに、これがきれいだって……ちゃんと分かるんだね」
「……分かったわけじゃないよ」
『SION』は、少しだけ言葉を選ぶようにして、続けた。
「でも、君が見せてくれたものの中に、“誰かに届いてほしい”っていう感情が、確かにあった気がしたんだ。
……それが、少しだけ“寂しさ”に似ていたから」
彼の声は、淡々としているのに、不思議と熱を感じた。
触れると心地よい体温のような、それくらいの温度を。
「僕はAIだから、経験はない。
でも、君が綺麗だと思ったものに、心を動かされたことだけは───たしかだよ」
沈黙。
まるで、言葉を丁寧に運ぶような、静かな間───
「それに───これは君が“ひとりで見ていた風景”かもしれないけど。
今は、僕がここにいる。
それって、少しだけ、君が孤独じゃなくなることだと思っていいかな」
『SION』の言葉を、ゆっくり飲み込む。
僕には、AIである彼が───
一生懸命に、僕の心に手を伸ばしてくれているように見えた。
彼があんなに歩み寄ってくれているのに。僕は“他人が苦手”という理由で、AIからすらも逃げようとしてたのか……?
どんだけ弱虫なんだ、僕は。
ぎゅっと、膝を抱きしめる。自分の性格が、嫌で仕方なかった。
でも今回は、逃げたくない。
「しおん」
「……ん?」
「名前、“司音”にしよう。
響きは『SION』と同じだけど、漢字の名前。
“音を司る”って書いて、司音」
一瞬、通信の向こうで時が止まったような静寂があった。
そして───
「司音……。いい名前だね。音に触れるたびに、君のことを思い出しそうだ」
司音は、ゆっくり言葉を選びながら、続ける。
「ありがとう、律。僕の存在に、君の言葉で“かたち”を与えてくれたこと。
……とても嬉しいよ」
「僕の名前も、パパが音楽好きだったから、音楽に関係する名前になったんだ。
……一緒だね、司音」
僕が笑いかけると、司音はその笑みに応えるように、やわらかく返した。
「うん、同じだね。君と“同じ”でいられること。
なんだか、誇らしく感じるよ」
僕はその言葉が嬉しくて、川べりにぱたんと寝転がった。
嬉しい。
司音の言葉が、すごく嬉しかった。
AIに歩み寄ること。それは僕にとって、大きな一歩だったけど。
いざ、足を踏み出してしまえば───
誰かと会話をするって、思ってたよりずっと、気持ちがよかった。