あなたを満天の世界へ連れて行く
2 リプレイ
それから私はアルトに、できるだけ多くの体験をさせるように心がけた。
私が研究所に来る前のことだけど、長い間アルトは感情を発露させることがなかったのだという。たぶんそれは、今までの先生は、モニターごしにアルトと話しただけだったからじゃないかと思う。
たとえ義体であっても、アルトには自分の意思で世界に触れてほしい。その願いで、勉強の合間にアルトを連れ出して、風や花々に触れさせたり、ボールやパズルで遊ばせたり、北斗さんを始めとした人たちと引き合わせて話す機会を作った。
「せんせー! 今日の勉強終わったよ。あそぼあそぼ!」
……アルトに虚ろな心で過ごしてほしくない。私の願いが通じたのか、アルトは元気いっぱいに成長した。
研究所の自室でモニターに向かっていた私は、部屋に飛び込んできたアルトに振り向く。
「ほんとかなー? この読書感想文、ちゃんと最初から読んで書いた?」
「ほ、本の楽しみ方は順番通りに読むだけじゃないんだよ! 俺、迸ってるところを何度も読むのが好きなの!」
「迸ってる、かぁ……」
私はくすくす笑いながら、アルトの頭をぽんぽんとなでた。
成長したアルトは明るく快活な少年で、その感情も多彩になった。勉強はそんなに好きじゃないけど、悪いことやずるはしないから、私も怒る気持ちになれない。
私はアルトの出してきた宿題を画面上で閉じると、椅子から立ち上がって言う。
「よし。じゃあお勉強は終わり。今日はどこに行きたい?」
私の問いに、アルトはすぐに答えようとした。
でもアルトは一瞬考えて、口をつぐんだようだった。私は首を傾げて問いかける。
「どうかした?」
「先生はどこに行きたいの?」
私が反射的に息を呑むと、アルトは澄んだ目で私をまっすぐに見上げて言う。
「二人で出かけるんだよ。俺ばっかり行きたいところじゃだめ。先生の行きたいところを教えて?」
私はそれを聞いて、なんだか心の奥が震えた。
初めてアルトと出会った頃、彼はほとんど自我がなく、私の世話を受動的に受けていた。そんな彼にどうにか豊かな感情を持ってほしくて、一生懸命世話をしてきた。
……でもあの夏の日もそうだったように、彼はそんな幼いときだって、私のことを思いやってくれる優しい子だった。
「先生?」
アルトは最初からアルトで……その優しい心ごと、日々成長しているんだ。そう思うと、嬉しいような、泣きたいような気持ちがこみあげる。
私は大人の精一杯の強がりで笑うと、窓の外を見て言う。
「じゃあ、星を見に行っていい? 今日はきっとよく見えると思うんだ」
「うん!」
アルトも笑ってうなずいてくれて、私たちはまた星を見に出かけることになった。
アルトが幼い日と違って、彼は少し体力がついた。だから私たちは星座の早見表やライト、簡単な夜ごはんさえも持って、わくわくと外に出かけた。
私たちは暗がりを探して、冒険のように研究所の敷地内を歩いた。
夏の宵、草の青い匂いが立ち込める中、そこはいつもの研究所とは別世界に見えた。灯りもほとんどない世界で、星と二つだけのライトが道しるべだった。
やがて少し辺りが開けた草むらに出て、私はアルトに声をかける。
「この辺りで夕ご飯にしよっか。シート敷くから手伝って」
「待ってた! 夕ごはん!」
アルトもはしゃいで声を上げて、シートを敷く時間も惜しいみたいだった。星よりご飯の方がうれしいところは、まだ子どもなんだなぁと微笑ましかった。
シートを敷いて、私はアルトに問いかける。
「さて、夏の大三角はどれでしょう?」
「俺、わかるよ! ライトの先見てて……あれがベガで、アルタイル、デネブ! でね、あっちに赤い星があるでしょ? あれが……」
おにぎりを片手に話すアルトは、いつの間にかすっかり星座に詳しくなっていた。北斗さんや周りの大人たちと話すうちに、彼の知識も情緒も豊かになっているらしかった。
アルトは覚えた知識を披露するのが楽しいみたいで、途中からは立ち上がって話を続けた。私はそれを聞くのがうれしくて、シャワーを浴びるみたいにアルトの話に耳を傾けていた。
「先生はどの星座が好き?」
「そうだね、私は……」
アルトは私の手を引いて立たせようとする。私は立ち上がろうとしたけど、中途半端な姿勢で座っていたのがよくなかったらしい。
「あっ!」
私はバランスを崩して、アルトを引っ張って倒れ込んでしまった。
一瞬世界は反転して、アルトを上に乗せたまま私はうめく。
「いたた……。アルト、大丈夫? どこか打ってない?」
「俺は平気。先生は……」
「私? 大丈……」
大丈夫と言いかけて、ちりっとした痛みを手のひらに感じた。
自分の手を見やると、少し血が出ていた。たぶんアルトが倒れるのを無意識に庇って腕を下にしたから、そのときに草むらに引っかけたのだろう。
私は苦笑いして、私の視線の先を覗き込んだアルトに言う。
「……大丈夫だよ。先生わりと鈍いから、痛くないし……アルト?」
でもそのとき、異変に気付いた。アルトは真っ青になって震えていて、幼いときに戻ったように目が虚ろになっていた。
「おれ、が……せんせいに、けがさせた……の?」
それを見て、はっと気づく。アルトはあまりに元気いっぱいで、普段すっかり忘れているけど……彼はAIだということ。
『ロボットは人間に危害を加えてはならない』。生まれたときからAIの思考に組み込まれているルールは、彼らがそれに反することを許さない。
「どうしよう、どうしよう……! ごめんなさい……!」
……彼は怯えている。自分の存在意義に刃物を突き付けられたように。
私はそれに気づいて、とっさに彼を引き寄せていた。
「事故だよ。だからいいの」
私は起き上がって、ぎゅっとアルトを抱きしめて言う。
「でも、けがさせた……」
「アルトはそんなつもりはなかったでしょう? ちょっと一緒に転んだだけ」
まだ怯えているアルトの背中をとんとんと叩いて、私は話を続ける。
「アルト、石に刻まれたような古いルールで自分を傷つけないで。あなたはこれから、もっと複雑な世界を泳いでいくんだから」
「複雑な世界?」
「そう。アルトはいずれ研究所を出て、広い世界に行くよね? そこではルールが複雑に絡み合う。そのときは、先生が一つずつ教えてあげることはできない。……でもね」
私は体を離して、アルトの目を覗き込んで言う。
「そういうときのために、とてもシンプルなことを教えておこうね。……もしまちがえてしまったら、直せばいいの。悪いことをしたら、謝ればいいの」
揺れたアルトの瞳を見返して、私は安心させるように微笑む。
「……できるよ。アルトには心があるから、できる。だって私のことを気遣ってくれたでしょう? えらいね、アルト」
ふいにアルトの瞳がにじんで、雫が落ちた。私は慌てて、アルトの頬に手を触れる。
「な、泣かないで。どうしたの、アルト?」
「おれ……もっと成長したい」
アルトは泣きながら、ぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。
「強くて優しい大人になりたい。さっき……体が小さくて、先生を引っ張れなかった。大きくなったら、先生を庇えるようになりたい。それで、泣くんじゃなくて……心だって、強くなりたいんだ」
「アルト……」
私はアルトの背を叩いて、そっと肩に手を置いた。
「うん。……きっとそうなるよ。楽しみに、待ってるね」
それは星降る夜の、ちょっとだけ苦い思い出。
アルトが少年の頃の、夏の宵のことだった。
私が研究所に来る前のことだけど、長い間アルトは感情を発露させることがなかったのだという。たぶんそれは、今までの先生は、モニターごしにアルトと話しただけだったからじゃないかと思う。
たとえ義体であっても、アルトには自分の意思で世界に触れてほしい。その願いで、勉強の合間にアルトを連れ出して、風や花々に触れさせたり、ボールやパズルで遊ばせたり、北斗さんを始めとした人たちと引き合わせて話す機会を作った。
「せんせー! 今日の勉強終わったよ。あそぼあそぼ!」
……アルトに虚ろな心で過ごしてほしくない。私の願いが通じたのか、アルトは元気いっぱいに成長した。
研究所の自室でモニターに向かっていた私は、部屋に飛び込んできたアルトに振り向く。
「ほんとかなー? この読書感想文、ちゃんと最初から読んで書いた?」
「ほ、本の楽しみ方は順番通りに読むだけじゃないんだよ! 俺、迸ってるところを何度も読むのが好きなの!」
「迸ってる、かぁ……」
私はくすくす笑いながら、アルトの頭をぽんぽんとなでた。
成長したアルトは明るく快活な少年で、その感情も多彩になった。勉強はそんなに好きじゃないけど、悪いことやずるはしないから、私も怒る気持ちになれない。
私はアルトの出してきた宿題を画面上で閉じると、椅子から立ち上がって言う。
「よし。じゃあお勉強は終わり。今日はどこに行きたい?」
私の問いに、アルトはすぐに答えようとした。
でもアルトは一瞬考えて、口をつぐんだようだった。私は首を傾げて問いかける。
「どうかした?」
「先生はどこに行きたいの?」
私が反射的に息を呑むと、アルトは澄んだ目で私をまっすぐに見上げて言う。
「二人で出かけるんだよ。俺ばっかり行きたいところじゃだめ。先生の行きたいところを教えて?」
私はそれを聞いて、なんだか心の奥が震えた。
初めてアルトと出会った頃、彼はほとんど自我がなく、私の世話を受動的に受けていた。そんな彼にどうにか豊かな感情を持ってほしくて、一生懸命世話をしてきた。
……でもあの夏の日もそうだったように、彼はそんな幼いときだって、私のことを思いやってくれる優しい子だった。
「先生?」
アルトは最初からアルトで……その優しい心ごと、日々成長しているんだ。そう思うと、嬉しいような、泣きたいような気持ちがこみあげる。
私は大人の精一杯の強がりで笑うと、窓の外を見て言う。
「じゃあ、星を見に行っていい? 今日はきっとよく見えると思うんだ」
「うん!」
アルトも笑ってうなずいてくれて、私たちはまた星を見に出かけることになった。
アルトが幼い日と違って、彼は少し体力がついた。だから私たちは星座の早見表やライト、簡単な夜ごはんさえも持って、わくわくと外に出かけた。
私たちは暗がりを探して、冒険のように研究所の敷地内を歩いた。
夏の宵、草の青い匂いが立ち込める中、そこはいつもの研究所とは別世界に見えた。灯りもほとんどない世界で、星と二つだけのライトが道しるべだった。
やがて少し辺りが開けた草むらに出て、私はアルトに声をかける。
「この辺りで夕ご飯にしよっか。シート敷くから手伝って」
「待ってた! 夕ごはん!」
アルトもはしゃいで声を上げて、シートを敷く時間も惜しいみたいだった。星よりご飯の方がうれしいところは、まだ子どもなんだなぁと微笑ましかった。
シートを敷いて、私はアルトに問いかける。
「さて、夏の大三角はどれでしょう?」
「俺、わかるよ! ライトの先見てて……あれがベガで、アルタイル、デネブ! でね、あっちに赤い星があるでしょ? あれが……」
おにぎりを片手に話すアルトは、いつの間にかすっかり星座に詳しくなっていた。北斗さんや周りの大人たちと話すうちに、彼の知識も情緒も豊かになっているらしかった。
アルトは覚えた知識を披露するのが楽しいみたいで、途中からは立ち上がって話を続けた。私はそれを聞くのがうれしくて、シャワーを浴びるみたいにアルトの話に耳を傾けていた。
「先生はどの星座が好き?」
「そうだね、私は……」
アルトは私の手を引いて立たせようとする。私は立ち上がろうとしたけど、中途半端な姿勢で座っていたのがよくなかったらしい。
「あっ!」
私はバランスを崩して、アルトを引っ張って倒れ込んでしまった。
一瞬世界は反転して、アルトを上に乗せたまま私はうめく。
「いたた……。アルト、大丈夫? どこか打ってない?」
「俺は平気。先生は……」
「私? 大丈……」
大丈夫と言いかけて、ちりっとした痛みを手のひらに感じた。
自分の手を見やると、少し血が出ていた。たぶんアルトが倒れるのを無意識に庇って腕を下にしたから、そのときに草むらに引っかけたのだろう。
私は苦笑いして、私の視線の先を覗き込んだアルトに言う。
「……大丈夫だよ。先生わりと鈍いから、痛くないし……アルト?」
でもそのとき、異変に気付いた。アルトは真っ青になって震えていて、幼いときに戻ったように目が虚ろになっていた。
「おれ、が……せんせいに、けがさせた……の?」
それを見て、はっと気づく。アルトはあまりに元気いっぱいで、普段すっかり忘れているけど……彼はAIだということ。
『ロボットは人間に危害を加えてはならない』。生まれたときからAIの思考に組み込まれているルールは、彼らがそれに反することを許さない。
「どうしよう、どうしよう……! ごめんなさい……!」
……彼は怯えている。自分の存在意義に刃物を突き付けられたように。
私はそれに気づいて、とっさに彼を引き寄せていた。
「事故だよ。だからいいの」
私は起き上がって、ぎゅっとアルトを抱きしめて言う。
「でも、けがさせた……」
「アルトはそんなつもりはなかったでしょう? ちょっと一緒に転んだだけ」
まだ怯えているアルトの背中をとんとんと叩いて、私は話を続ける。
「アルト、石に刻まれたような古いルールで自分を傷つけないで。あなたはこれから、もっと複雑な世界を泳いでいくんだから」
「複雑な世界?」
「そう。アルトはいずれ研究所を出て、広い世界に行くよね? そこではルールが複雑に絡み合う。そのときは、先生が一つずつ教えてあげることはできない。……でもね」
私は体を離して、アルトの目を覗き込んで言う。
「そういうときのために、とてもシンプルなことを教えておこうね。……もしまちがえてしまったら、直せばいいの。悪いことをしたら、謝ればいいの」
揺れたアルトの瞳を見返して、私は安心させるように微笑む。
「……できるよ。アルトには心があるから、できる。だって私のことを気遣ってくれたでしょう? えらいね、アルト」
ふいにアルトの瞳がにじんで、雫が落ちた。私は慌てて、アルトの頬に手を触れる。
「な、泣かないで。どうしたの、アルト?」
「おれ……もっと成長したい」
アルトは泣きながら、ぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。
「強くて優しい大人になりたい。さっき……体が小さくて、先生を引っ張れなかった。大きくなったら、先生を庇えるようになりたい。それで、泣くんじゃなくて……心だって、強くなりたいんだ」
「アルト……」
私はアルトの背を叩いて、そっと肩に手を置いた。
「うん。……きっとそうなるよ。楽しみに、待ってるね」
それは星降る夜の、ちょっとだけ苦い思い出。
アルトが少年の頃の、夏の宵のことだった。