許しの花と愛のカタチ

その夜、芹沢家の広いダイニングテーブルで、碧葉は食事もそこそこに考え込んでいた。

「碧葉、どうしたんだ。何かあったのか」
養父の蓮斗が、心配そうにその顔を覗き込む。

「…ううん、なんでもない。仕事で、海原忍さんという医者に会っただけだ」
努めて平静を装う碧葉の様子に、蓮斗はそれ以上何も聞かなかったが、その心には「海原」という姓が小さな棘のように引っかかっていた。
それは、かつて唯一無二の親友だった男、弁護士・海原昴の姓だったからだ。
碧葉が自室に引き上げた後、蓮斗は書斎でノートパソコンを開いた。「海原昴 弁護士」。
検索結果には、今も第一線で敏腕弁護士として活躍する旧友の姿があった。そして、その関連記事の中に、蓮斗の目を釘付けにする一文を見つけた。

『――妻・純那さんは二年前に不慮の事故で逝去。生前の意思に基づき、臓器はドナーとして提供された――』

二年前に、事故で。
その瞬間、蓮斗の胸が、キュンと切なく締め付けられた。
それは、まるで他人の記憶が呼び起こされたかのような、不思議な疼きだった。
二年前、自分は心臓移植手術を受けた。この胸で力強く鼓動する心臓は、あの日、どこかの誰かが繋いでくれた命だ。
まさか。
蓮斗の全身を、運命という名の戦慄が駆け巡った。

数日後、碧葉は再び病院を訪れていた。忍に会いたい一心で、必要もない追加の打ち合わせを設けたのだ。
廊下の向こうから、忍が歩いてくるのが見えた。
数人の看護師に囲まれ、冷静な口調で指示を飛ばしている。
その姿は威厳に満ち、医師として全幅の信頼を置かれていることが窺えた。
患者らしき老夫婦が彼女に頭を下げると、忍はわずかに目元を和らげ、静かに会釈して通り過ぎる。
冷たいようでいて、その根底には深い優しさがある。
碧葉は、その姿からますます目が離せなくなった。


「海原先生」
碧葉が声をかけると、忍の右目がわずかに険しくなった。
「芹沢副社長。これ以上の打ち合わせは必要ないかと。資料に目を通していただければ、それで」
「いえ、細かい仕様について直接ご意見を伺いたいんです。先生のお時間を少しだけいただけませんか」
食い下がる碧葉に、忍はため息ともとれる息を吐いた。マスクで表情は読めないが、その右目が苦しげに細められたのを、碧葉は見逃さなかった。

「…分かりました。ですが、5分だけです」
その拒絶の中に、なぜか碧葉は彼女の必死さを感じ取っていた。
まるで、自分から逃げようとしているかのように。

そんな二人の様子を、物陰から憎悪に満ちた目で見つめる女がいた。会社の食堂で働く、内金利己。
「あの女…また碧葉様に色目を使ってる…!」
利己にとって、数年前に歩道橋から転落した自分を助けてくれた碧葉は、人生の全てだった。
男に裏切られ、お腹の子も失い、絶望のどん底にいた自分を救ってくれた王子様。
その碧葉に近づく女は、誰であろうと許せない。ましてや、あんな顔を隠したお化けのような女など。
利己の歪んだ愛情は、忍へのどす黒い嫉妬へと姿を変え、静かに牙を研ぎ始めていた。

その頃、蓮斗もまた、こっそりと病院を訪れていた。
息子同然に育ててきた碧葉が心を奪われた医師とは、どんな人物なのか。
そして、もし本当に昴の娘ならば…。
遠巻きに忍の姿を認めた蓮斗は、息を呑んだ。
マスクと眼帯で隠された痛々しい姿。
だが、そのすらりとした立ち姿や、時折見せる理知的な仕草に、蓮斗は疑いようもなく旧友の面影を見た。
「昴…、あいつの娘なのか…?」
だとしたら、あの顔の火傷は。
蓮斗の脳裏に、二十年前のあの夜の、燃え盛る邸宅の光景が蘇る。
全てのピースが、一つの残酷な絵を形作ろうとしていた。

蓮斗は決意した。
全ての真実を、この手で明らかにすると。
彼の胸で鳴り響くこの鼓動が、そうしろと強く命じている気がした。

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