許しの花と愛のカタチ

ガラス張りの高層ビル最上階。
芹沢ホールディングスの副社長室で、芹沢碧葉は分厚い決裁書類の最後のページにサインを書き終えた。
28歳にして巨大グループ企業の舵取りを任される彼の姿は、誰の目にも完璧なエリートとして映るだろう。
海外留学を経て他社で実績を積み、鳴り物入りで副社長に就任した彼の経歴に、誰もが羨望の眼差しを向ける。
しかし、その整った顔立ちに浮かぶ表情は、常にどこか冷めていた。
会議で的確な指示を飛ばし、会食で卒なく愛想笑いを浮かべても、彼の心の奥は二十年前から凍りついたままだ。
(また、あの夢か…)
昨夜も、業火の夢にうなされて目を覚ました。
耳に残るのは、少女の悲鳴にも似た囁き。あの声の主を探し続けて二十年。
手掛かりは何一つない。
養父の蓮斗は実の息子以上に碧葉を大切にしてくれているが、血の繋がりがないという負い目と、時折蓮斗が見せる苦しそうな表情を見るたびに「これ以上負担をかけてはいけない」と心を閉ざしてきた。
誰にも本当の意味で心を開けず、成功という名の鎧をまとって、空虚な日々をただやり過ごしている。

「副社長、お時間です。総合病院との打ち合わせが」
秘書の声に、碧葉は無感情に頷いた。また、退屈な一日が始まる。
そう、思っていた。
この日、運命の歯車が大きく軋みを上げて動き出すことなど、知る由もなく。


消毒液の匂いが満ちる手術室。緊迫した空気の中、海原忍は寸分の狂いもなくメスを走らせていた。
止まっていた心臓が再び力強く鼓動を始める。その瞬間、手術室に満ちていた緊張が、安堵のため息へと変わった。

「バイタル安定。…閉じます」
低く、落ち着いた声で指示を出すと、助手たちが素早く動き出す。3
2歳にして心臓外科のエースと呼ばれる彼女は、その腕前で数多くの命を救ってきた。
しかし、彼女の素顔を知る者は、この病院にはほとんどいない。

手術を終え、医局に戻った忍は、ロッカーの鏡に映る自分を見つめた。
大きな白いマスク、そして左目を覆う黒い革の眼帯。
その下には、二十年前に負った、ケロイド状の醜い火傷の痕が隠されている。
左目は、光をほとんど失っていた。

(こんな顔、誰にも見せられない)

幼い頃、ある火災事故で負ったこの傷は、彼女の人生から光を奪った。
外に出ることを極端に恐れ、他人と深く関わることを避けてきた。
医師になったのも、人を救うことでしか、自分の存在価値を見出せなかったからだ。
母の純那が事故で亡くなってからは、その想いはさらに強くなった。
父の昴は今も忍を案じているが、彼女は父にさえ心を閉ざしがちだった。
自分の人生は、この傷と共に、静かに終わっていく。
それでいい。
忍は鏡の中の自分から目を逸らすと、再びマスクと眼帯をつけ直し、固く閉ざされた心の扉に、さらに重い錠前をかけた。

カンファレンスルームで、碧葉は提携先の責任者を待っていた。
やがてドアが開き、1人の女性医師が入ってくる。
すらりとした長身に、清潔な白衣。
だが、碧葉の視線は彼女の顔に釘付けになった。
大きな白いマスクと、黒い眼帯。その異様な出で立ちに、一瞬戸惑いを覚える。

「お待たせいたしました。心臓外科の、海原忍です。本日はよろしくお願いいたします」
その声が響いた瞬間、碧葉の全身を電流のような衝撃が貫いた。
忘れるはずのない声。
二十年間、夢の中で何度も聞いた声。
灼熱の地獄の中で、自分を絶望の淵から救い上げてくれた、あの少女の声。
まさか。そんなはずはない。幻聴か?
だが、鼓膜に焼き付いたその音色は、寸分の狂いもなく、目の前の医師の声と重なった。

「…芹沢ホール-ディングス、副社長の芹沢碧葉です」
声が震えそうになるのを必死でこらえ、碧葉は名刺を差し出した。忍の白く長い指先が、ほんのかすかに触れる。
その微かな接触だけで、碧葉の胸は張り裂けそうに高鳴った。
打ち合わせが始まっても、碧葉はその声の残響から逃れられなかった。
医療機器の専門的な説明も、忍の声を通して聞こえてくると、まるで子守唄のように心を揺さぶる。
(この人は、一体誰なんだ…)
二十年間、凍り付いていた碧葉の心の湖に、大きな波紋が広がっていくのを、彼はただ呆然と感じていた。
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