ゆびさきから恋をする
 実験室の隣はミーティングルームになっている。測定装置や資料、共通パソコンなどが置かれたりしていて仕事中行き来することは多いが。

「今は行かないほうがいい」

 高田(たかだ)さんに言われて足を止めた。

「どうしました?」

井上(いのうえ)くんが久世さんとお話し中……」

 お話し中という名の説教中とも言える。
 ガラス越しからそっと様子をうかがっていると井上さんが必死に話をしようとしているけれど冷たく一括されている様子が見て取れる。


(こわ……)


 井上さんは必死のプレゼンもむなしく、書類を突き返されて肩を落としていた。

「今度の技術発表会のことだろうね。添削厳しいからなぁ、久世さん。私も早めに資料作っておかないとやばいわ」

「大変ですねぇ……」


 肩を落として実験室を出て行った井上さんの悲しそうな背中を見送りつつそうつぶやくと高田さんが肩を叩いてきた。


「菱田ちゃんが依頼分析いっぱいさばいてくれてるから大助かりだよ? 試験してたら資料まとめる時間なんかないからさ。依頼に追われるだけだもん」

 そう言われてあいまいに微笑む。派遣の私の仕事は依頼を捌くこと、言えばそれだけだ。

 責任のある薬品の管理や在庫のチェックもしない、発表会や自分でテーマを決めて研究することもない。毎日の仕事の中で依頼をさばくのは大事なことだ、それがここにいて大半の仕事でもある。

 でも、日に日にそれだけでは満たされなくなってきているのも本音だった。

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